お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

私の中の神様

昨日は一日中眠くだるく、歩いても歩いても抜け出せない、眠気を催す霧の詰まったカプセルの中に入れられてしまったような日だった。

何が原因なんだろう。何がいけなかったのだろう。

こんな時いつもそうしてここ数日の生活を振り返り、蛋白質が足りなかったのか、運動量が多すぎたか、いや、運動不足なのか、食事全体のボリュームが足りていないのか、あれこれ考えそれを補うよう食べたり、寝たり、はたまたえいやと体を動かしたり、起動終始に躍起になった。

つまりそれは「なかったことにしよう」と言う・・・。

体調を崩すと言うことを、真っ白の紙の上に落としたインクだとしたらそれを消そうと水をかけてこすったり、白い絵の具を塗ったりしているようなもので、大体は事態を余計ややこしくする。

ああ、ちょっと汚れちゃったなあと、ポリポリ頭をかいていた方がよっぽどマシなのだ。

それでも足掻くのは、どこかで体の弱い自分を受け入れていないからだろう。

私の場合、大人になってから急に虚弱になってしまったので、子供の頃のお転婆だった自分を捨てきれない。さっきのインクに例えるならお転婆元気一杯まっしぐらだった子供時代からの自分の上にポトンと落っことした黒インクが8年前の生死をさまよったアクシデントなのだろう。

私は元気よ大丈夫よと言って忙しく家族に貢献する自分に価値があると、それを柱に生きていた。今、それをパワー全開にできない自分が「本来の私」ではないとどっかで思っているのだ。

本当の私はこんなもんじゃない。もっとアレも、これも、あんなことだってこんなことだってできるのに。

もっと活躍できるのに。

倒れる前だってよく考えてみれば、それほど華々しい存在ではなかったと言うのに、未だ「すごい自分」でありたいと思うのはなぜだろう。

「トンさんがいるだけで僕はやってられる」

と夫は言ってくれる。

「頑張るな、のんびりしろ」

息子も母に過大な期待をしてこない。

なのに。なんでなんだろう。

やはりただ、じっと存在しているだけの自分でも十分価値があるんだと、いまひとつ納得していないのだろうか。

 

鬱で苦しんでいる友達が、先日「今日も何もできなかった」とメッセージを送ってきた。私にとって彼女は魂の綺麗な女性であって、大学のキャッキャキャッキャと子供と大人の間の頃を一緒になって過ごした仲間であることに変わりがない。くさい言い方になるが、青春時代の楽しかった記憶の中からは消せない存在だ。

だから、何もできなかった。と言われてもそんなことはどうでもいい。いなくならないで。死を選ばないでとただそれだけを願う。時々過食して、丸々太ったと泣かれても、見てくれなんかどうでもいいのだ、それでも生きて欲しい、私のためにと願ってしまう。

お願いだ、この世にいてくれ。

そう思う。

それは夫にも息子にも母にも姉にも掛け替えのない人達には皆同じだ。

この世で、その体温を発していて欲しい。

できることなら嬉しそうに笑っていて欲しい。

 

なんでこれを自分自身に思わないんだ。

どこかでタカをくくっているんだろう。

私は大丈夫。私はどうとでもなる。

あとで楽しむから、あとで休むから、大丈夫。

 

けれど最近思うのだ。

私が私の神様だったらなんて言うだろうか。

何にもできない存在だって、皆と同じにあなたを意味のある人として愛していますよ。丸ごと全て愛します。

そう言う。

 

その声がやっと耳に届いた気がする。

 

・・・なぁんてことを口実に家の中でまったりまったり過ごしている。

今夜はポトフ。

明日はポトフからの、カレー。

そんでもって明後日は鍋。

野菜と肉を放り込むだけでいい。

頑張らなくてもちゃんと私は価値ある人だから大丈夫。お気楽にお気楽に。

と言い聞かせながらおっかなびっくり、じっと今の自分を受け止めている。