急ぐな、転ぶから
「買い物に行くならそろそろ行った方がいいぞ。外寒くなってきたから」
昼過ぎに帰ってから、うどんを平らげたところの息子に言われた。
時刻は4時。確かにこの辺りを境にぐっと冷え込む季節になってきた。
「そうする。最近は息子が私の親みたいになってきたね」
10時過ぎて起きていると「母さんはいつ寝るんだ?」と言われ、ゲームをやっていると「なにがあっても絶対課金するなよ」と忠告される。
「いやいや、母さんのおっちょこは今に始まったことでないから。俺は幼稚園のとき周りがみんな白い帽子かぶっているときに全てを悟った」
そう。彼がまだ幼稚園年少のとき、お泊まり保育で園に向かっている自転車の朝。すれ違う自転車の後ろの席にいるお友達は皆、頭に夏用の白い園帽を被ってママの服を掴んでいる。そのことにいち早く気付いたのは息子だった。
「お母さん、みんな帽子がぶってる」
「え?そう?だって私服登園ってお手紙にあったよ」
「でもみんなかぶってる!」
確かに。どの子もどの子も被っている。やってしまった。
「じゃ、とにかく幼稚園に行って息子おろすから。お母さん、すぐ戻ってとってくるよ」
「すぐきてよ」
自転車から飛び降りるとそそくさと園児は教室に消えていった。私は家にと向かう。
ああ、かわいそうなことをしてしまった。さぞ不安な思いで待っているだろうと、大急ぎで帽子を手に舞い戻り、息を切らし息子のクラスを覗く。
あ、いたいた。こっちみた。右手で帽子を掲げ振り、にっこり笑ってこっちにくるよう合図を送った。
ちらりとこちらを見た。確かに目があった。
硬く緊張した顔に笑顔が戻りこちらにトテトテと小走りで向かってくるもんだと思っていると、奴は、なんとふっと視線を外し、何事もなかったかのようにお友達とまた遊び始めた。
む、無視した?
するとすぐに担任の先生がやってきて
「あ、お帽子ですね。ありがとうございます。息子ちゃんにもらっといてって頼まれてます」
と私の手から帽子を受け取った。
あいつ。かっこ悪いもんだから目立ちたくないものだから、先生に受け取るようにと頼んでいたのだ。
これは俺のミスじゃねえ。恥をかくのは俺じゃねえ。
そういったところなのだろう。
今思い返すといかにも失敗を嫌い、几帳面で慎重な息子のやるようなことだ。
「あのときにもう俺は悟った。これは俺がしっかりしないとやべえことになる」
したり顔で頷く息子。
「その前も反対方向の電車に乗ったり、特急に乗って家の駅通過したりおかしいとは思っていたんだ」
確かに小学校に上がる前から気がついた頃には、電車に乗るときは必ず「1番線だよ」「次の電車は乗らないよ」と教えてくれるようになった。
あらまあ、この子は鉄道が大好きなのねとその度に微笑ましい気持ちで聞いていたが、実は被害に遭い続け防衛本能に磨きのかかった彼の知恵だったらしい。
雨は上がった。外は暗くなり始めている。
「じゃ、いってくるね」
「何時に帰るんだ?」
「すぐだよ、スーパーだけだから、30分で戻る、急ぐわ」
「いや、急がなくていい、転ぶから。走るな、気をつけていけ」
「はーい」
しっかりせんと。