お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

お久しぶりです

お久しぶりでございます。

 

夫が知らぬ間に先週一週間の休みをとっていた。

前後土日を含むと九日。

偶然息子もちょうどアルバイトが無い時期で家族三人揃って家にいるというのは夏旅にでたような非日常感だった。

ここしばらくこのブログをお休みしていたのは、心の余裕がそこまで追いつかなかった事と、体調が優れなく、そんな時間があったら横になろうとしていたからなのだが、本当にパソコンを立ち上げるだけのことにあんなに気力がいるものだとは。

そして言葉を選んで自分の想いを綴るのにはそれ以上のエネルギーがないとできないのだと痛感した。

夏休みの課題として夫のお腹をひっこめるというのを立ち上げたわたしだが、ここで新たにもうひとつ、『長期休暇の夫のいるときの自分のあり方』というのを掲げた。

夫は自分の目的や興味のある事にはフットワークが軽いが、家族を楽しませるために企画してちょっと無理してサービスするということは苦手な人だ。

頼めば「いいよ」といいつき合うが、あからさまに楽しんでいないのがわかる。帰宅すると「ああ疲れた」といってすぐ寝てしまうので一緒に出かけている最中も帰って来てからもこっちは寂しいのだ。

自分だけが盛り上がり、ああ疲れたけど楽しかったねと言い合えない。これはけっこう応える。

母にはそれも努力が必要よ、なんでも練習しなくちゃと言う。

面倒くさいと思っても二人で映画一つでもいいからどこかに遊びにいく訓練をして習慣づけないと駄目よ。

それが頭にあり「なにかイベントらしきことを」と休みの旅に頑張ってきたが、今回は一切それをやめてみた。

実験的に自分の主張ややりたいこと、自分だけの時間を確保することなど一切もたず、すべてを家族との間で流れに任せて、ただ、相手の求めるときにそれに対応することにした。

妻として相棒としてそこにいる。寄り添ってみる。

同時に母として、そこに存在する。

息子が大学三年。こんな風に三人が家で同時に過ごす夏というのは、これが最後かもしれない。

大げさかもしれないが自分の体力はすべて家族に費やして過ごそうと思ったのだ。

テレビをみたり勉強したりする夫のそばでただ、おなじように一緒にテレビを観て、本を読む。相変わらず私たちはあまり喋らない。

それぞれの事をしながら同じ部屋にただいるだけ。

「そろそろお昼たべよっか」

「そうだね」

とにかく夫にこちらからあそこに連れてけここに行こうと言わず、彼のやりたいように合わせていると、不思議な事に私自信が休まる。呼吸が落ち着く。これは意外な事だった。

特別な事はしない。

相手も自分もジャッジせず、すべてそのまんま受け入れ流れのままに過ごす緩い日々。

 そんな中、私に一度、発作のような症状がでた。

数年前倒れたときも、実はその前からもだったが、体調が悪くなると、どうにも立っていられずバタッと床に寝転び痛みや苦しさが自分の身体を通過して行くのをやり過ごす。たいていは一時間ほどで楽になるのと、一人のときの事が多かったので夫はそれを目の当たりにしたのは初めてでびっくりしたようだった。

「怖かったよ」と翌日言っていたので相当ビビったらしい。

一時間経ってもよくならずにそのまま危篤になったのが入院したときのいきさつだが、彼はそのときも会社にいたから知らない。

私もどうしても自分の体調不良は隠すくせがあるのであたりまえなのだ。

しかし今回はそれももう、いい、解禁だと頑張らなかった。

苦しいときは苦しい表情をしてもいい。

痛いときに無理して立ち上がってみせなくていい。

弱い自分をジャッジしない。

そのときに気働きできない彼に対してもジャッジしない。

心配してくれる人がそこにいる。背中を怖々とさすってくれる。

それだけでいいのだ。

家族のありかた、夫婦のありかた、すべてが丸。

私たちはこれでいいのだと思える。

身体が頑丈でない私も丸。

気はやさしいけど気を回すことができずマイペースな夫も丸。

おやじのやることなすこと気に入らず文句をいいながらも親父を認めているひねくれ息子も丸。

なにをしようともしなくとも。

なにかをしてくれなくても、してあげられなくても。

私の周りには強い愛しかない。

おもいがけずそんなことを想う日々だった。

だからだろうか、このブログも長い事休む事になってしまったが焦る事はなかった。

 

すべては大丈夫。

ながれのままにそのまんま、抵抗しないで大丈夫。

家族の中での私は彼らの投げて来たボールを正面からキャッチしていられるようでいたい。

それだけでいい。

そうすることが自分自身の幸福感につながる。

これが今回掲げた課題の答え。