ごめん
母から誘われた、松屋銀座でやっている絵の展覧会を断った。
最近、母とは祖母のところに行ったり、その帰りにお茶を飲んでおしゃべりしたり、食事をしたり、共に行動することがまた、できるようになっている。笑い話も自然とできる。氷は溶けた。
同時に自分の方から、機嫌を取りに行ったり、母の好みそうな映画に誘ったりはしなくなった。丸一日顔を出さない事も珍しくない。
買い物に行くときに何かついでに買うものはないか、と聞きにいくのは続いているが、それも元気そうな声が聞こえてくれば、声をかけないことも増えた。
フライをたくさん作ったお裾分けだとか、郵便物を届けるとか、息子で済むものであれば、頼む。
遠くから気にかけてはいるが、追いかけない。
母はそのことに気がついていないのか、いるのか。そういえば、あの子最近見ないわね。くらいのものじゃないかと思う。私自身が彼女の視線や言動に縛られていただけのことだったのだ。
母の暴言や八つ当たりで傷ついたとき、私自身が自分に自信も自尊心もなかったものだから、それらを自己評価の低さに繋げたが、同じ言葉や態度でぶつかられても、「なんか機嫌悪いなぁ。言われちゃったなぁ。」と、のらりくらり交わす子供でいてもよかったのだ。
一つの事象を自分の思い込みでどんどん辛いほう辛いほうへと結びつけていたのは、私の脳の判断なのだった。
展覧会の誘いを聞いた時、なんとなく、嫌だと思った。
祖母の見舞いや、誰かの誕生祝いなどでなく、母の単純なお出かけの相手をする1日は、なぜだろう、とても心が疲れる。無意識のうちに彼女の喜ぶ陽気な明るい娘を演じるからかもしれない。喜ばそうと、本当は欲しくもないものを付き合いで買ったり、食べたくないものを頼んだりするからか。
まだ、未熟なのだ。
ずっと未熟なのだ。
77歳の母が誘ってきたのだから、いいよと、こだわりなく付き合って出かけてやれる娘になりたかった。
そういう自分でありたかった。
でも、それは苦しいから嫌と、心が叫ぶ。
自分を優先させた。
「あら。そう?じゃあいいわ」
けろっと母は帰って行ったが、あれからずっと心が沈む。
「ごめんね」
「いいのよ、やめましょう」
行ってやればよかったか。でも、約束すれば、きっと今日、この瞬間からその日まで憂鬱になる。
私はずっと仮面をかぶっていたのかもしれない。
いい娘。優しい娘。気の利く娘。
そこに、自分の価値を求めて好評価を期待して。
ごめんねぇ。お母さん。
今の距離の方が義務じゃなくて本当の、優しい気持ちが湧いてくるんだ、私。