やるせない
夕方、電話が鳴った。普段は勧誘などを避けるため留守電にしている。が、その日に限って設定されていなかった。ベルは長く粘る。本当に用事のある人かもしれない。恐る恐る受話器を持ち上げ耳にあてた。
「・・・もしもし・・・ですけど」
弱々しいというより、たどたどしい。だれだろう。ご老人だろうか。
結婚してから15年ほど続けていた習い事がある。そこの生徒は60代から90代がほとんどだった。あのときの誰かだろうか。
「もしもし・・どちら様でしょう」
「トンちゃん?あたし・・うき・・あの、高知の・・」
ああ!
「ふきちゃん?ふうちゃんでしょう!」
「そう!わかるぅ?」
息子が幼稚園の頃、SNS上で知りあった。彼女のブログに私がコメントを書いたことから付き合いが始る。しばらくして彼女はブログをやめたが、なぜか付き合いは続き、今でも毎年毎年彼女の畑で採れた作物や手作りの味噌を送ってくれる。私も東京から酒など送るが、一度も会ったことはない不思議な友達だ。
ああ、この前送ったものが届いたんだな。
毎年この時期、数少ない友人に季節の挨拶を送るその中に、彼女もいる。それを受け取ったという知らせをいつもはラインのところを、今回はわざわざ電話をしてくれたのだろう。
「届いたのね」
返事がこない。しばらく待ってみた。
するとだいぶたってから、それでもいつもの陽気な声で
「うん・・・あたし、病気して・・・よう・・あのね・・・話せん・のお・・・・・・脳・・」
と言うではないか。
明るい陽気な声で。ちょっと旅行に行ってきたのようとでも言うかように、あっけらかんと言うではないか。
「脳梗塞?」
「うん、うん、言葉がうまく・・・・でも・・料理とかしとるん・・」
4月に倒れたそうだ。
パワフルに早朝から畑をやり、お母様のお世話もし、ご主人の釣ってきた大量の魚をさばき、役所の仕事もし、とにもかくにもエネルギッシュな人だった。
元々は看護婦だったのでご近所のお年寄りで具合の悪い人がいれば行って看病だってする、労を厭わず目の前に居る問題を抱えている人のところにはすっ飛んでいくような。
その彼女がある日突然倒れた。ICUに運ばれ、三ヶ月入院し、今月退院したばかりだと言う。
「右側がうまく動かないのと言葉がまだうまくでないんよ。でも、自転車は乗ってるん」
なんと言ったらいいのだろう。元看護婦だから、すぐよくなるよ、なんていい加減なこと言えない。そんなこと自分が一番わかっているはずだ。
「ちゃんとわかるよ、話してること。大丈夫。自転車乗ってるの?すごいじゃん!私、退院してから未だに乗れないんだよ、やられたぁ」
ヒャヒャヒャヒャ。声をあげて笑った。「勝った〜」。
よかった。笑ってくれた。
車椅子生活になると言われ、ご主人もそのつもりでいたそうだ。
自転車で買い物に行ってしまうその強気な姿勢、いかにも彼女らしい。
倒れて入院してリハビリして右半身麻痺して言葉もうまく話せなくて、味覚もない。
そんなに大変なことを「実はね」もつけずに「倒れたんヨゥ」と言ってのける。
強く健気だ。病人によくある被害者のようなふうでもなく。
「リハビリ、辛かったでしょう?」
「・・・・・辛かった!」
「頑張ったんだね」
「・・・がんば・・・った!!」
今度は笑ってない声だった。
辛かったんだ。あたりまえだ。
あんまり話すと疲れるから、今日はここまでにしようと電話を切った。
静かな部屋で彼女を想うと、切ない。
応援したい、元気を出させてあげたい、喜ばせたい。
味がわからないなら花はどうだろう、綺麗なホームウェアはどうだろう。
しばらく何がいいか考える。
あ。
取ってつけたようにすぐまた、品物が届いて嬉しいだろうか。
彼女は今、陽気な声を出して一生懸命「患者ではない生活」やっているのに。
私が今送ろうとしていたのは、このやるせない気持ちなんじゃないだろうか。
をやるせなくてやるせなくてなにかしたいだけなんじゃないか。
やめよう。
・・・本当にそれでいいのか。
・・・やっぱり、今はやめよう。