お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

母のおねだり

「わたしあの映画みたいのよね」

母が夕方ふらりとやってきて言う。

京都のこの前一緒にいったお寺の名前はなんだっけなどと、なんで今頃と思って聞いていたら、こっちが本題だったのだ。

あの映画というだけで、ピンときた。あれだ。グリーンブック。先日生協の荷物を置きにいったとき、壁にタイトルをメモした紙がが貼ってあった。

私も観たいと思っていたので

「やっば・・。誘われる前に観てこねば」

と身構えたので覚えている。

とき、すでに遅し。もはや逃れられん。

「あれでしょ、ミュージシャンのピアニストの」

「そう!おかあさん、あれ観たいのよぅ」

母は映画はずっと父と二人で観てきた。神保町に住んでいたので、日曜の朝一番の映画を有楽町で観て、それからデパートの魚売り場で父の好きな食材を選び、夕飯の買い物と昼のパンを買って帰ってくる。それがずっと彼女にとっての映画だったので、一人で映画館に入るなんてことは「恐ろしくてできない」そうだ。

私も観たいと思っていたから行こうかというと、両手を胸のまえで組み、わぁ嬉しいと、くねくねして喜ぶ。

「月末になると忙しくなるからこんどの日曜はどう」

「いい、お母さん、日曜はいつでもあいてるから」

「お姉さん、休みじゃないの?」

独身の姉が休みの日に私と外出するのは避けたがるので確認する。

「大丈夫」

インターネットで時刻を調べると12時10分の回がまだ空席があった。二時間ものだから終わって2時半前か。お茶を飲んでも夕方には帰れる。

母に画面を見せ、これはどうかと聞く。

「これだったら終わってからお茶飲んで、夕飯の買い物して帰っても5時前には家につくから」

「いい、いい、なんでもいい」

それではチケットの手配はしておくからと約束した。

ところが翌朝になって母がまたやってきた。

「あのぅ、お姉さんね、今週、日曜休みなんだって」

「あ、そう。じゃ、二人で行ってくる?いいよ」

「あの人、映画は嫌いだから、でもお茶だけくるって」

なんと。

「いいけど、わたし、そんな長居するつもりないよ。さくっと帰るよ。あ、映画の後はお姉さんにバトンタッチでもいいけど」

「だって、あなた、お茶飲むっていったじゃない!」

言った。確かに言った。

「わかったわかった。いいよべつに。大歓迎だよ。お茶飲んで私だけ先に帰ってもいいんだし、二人はゆっくりすればいいじゃない」

じゃあお姉さんにそう言っておくわねと、弾んで帰っていった。

「明日、11時ね。11時に出発の用意しておけばいいのね」

 

まあそれが昨日だったわけだが。

映画は間違いなく大当たりだった。

二時間なんてあっという間で、笑ったりホロリときたり充実した120分はあっという間に過ぎた。

エンドロールの流れるなか、姉からのLINEが母の携帯に何度も入る。もう着いた、まだかという内容らしく暗がりで返信を打つ老婆。

母ははしゃいでいた。姉はえばっていた。私はぼけっとしていた。

まったく会話の噛み合ない3人のお茶会は、疲れたけれど、二人の顔をまじまじと眺めながら、この年になってもこんなふうに、実家の家族との時間を過ごせるのもありがたいことだと、思っていた。