嬉しいお年頃
一日家の中で過ごす。
無理しない。今、頭にあることじゃなくて、気持ちが向いている流れにまかせて過ごす。
あきれるほど、家が好き。
本を数ページ読んでは掃除機をかけ、納戸のタンスから古くなった息子の靴下を取り出し何かに使えないかと考えながらぼんやり窓の外を見る。
掃除機を壁に立てかけたまま台所に行き、なんとなくミートソースを作りはじめる。そうだ、と、ついでに昼用の鮭を焼き、卵焼きを作って、炊飯器に残ったご飯でおにぎりを握り、皿に盛る。
「お昼おいとくから」
そういや、息子の自炊宣言はあれからどうなったんだ。
などと思いつつ、まだ役割が残っていることをどこかで喜んでいる自分に苦笑する。
机に戻り本の続きを読む。
やっぱり自分丈で選んだ本は楽しい。
ちょっと難しいことを、優しく中学生が読んでもわかるくらいの言葉で、噛み砕いて教えてくれるこの本に、もっと教えてもっと教えてと、心と脳みそがグイグイ前のめりになっていくのがわかる。
学校の勉強もこんなふうに、ゆっくりゆっくり低いところから教えてくれたら面白く思えたのに。
・・・でもないか。
学びたいと思っていなかった。うわべだけの体裁と評価だけに価値を見いだしていた。
誰のせいでも、環境や制度のせいでもなく、そのころの私の一番の関心ごとは、「ちゃんとした子」と思われているか、自分は「いい子の条件を押さえているか」だったのだ。
自分がなにを好きで、なにに興味をもっているかということを雑にあつかっていた。あふれるほどにやりたいことがあったような気がするのに。もったいない。
それでもやっぱりあの頃にもどったらきっと私はもう一度「いい子」の道を選ぶだろう。あのときの正解はきっとあれだったんだ。
他人軸でやってきて、今頃50目前にして、遅まきながら自分軸にシフトしはじめたものだから、なにをしたいのか、なにをしていれば魂が喜ぶのか、とんと検討がつかない。
手当たり次第、好きなことをやってみているが、ときどき途方にくれる。
だだっ広い砂漠にポトンと落とした鍵を探しているかのような気になってくる。
『こんなんで見つかるのかよ・・・』と焦るときもある。
それでも、探す楽しさ。
見つける喜び。
一瞬、掘り当てたような錯覚を味わったときのときめき。
それは本だったり。ドラマだったり。ラジオだったり。人だったり。
くるくる移り変わる。
自分の世界に引きこもり用心深くしていたときの安心感も心地よかったが、今はちょっとそこから首をだし、きょろきょろ辺りを見渡しはじめたところ。
なにかから逃げるようにひたすら遠くまで早足で歩かなくても、まるまる一日家にいて充足できるようになってきたんだ、わたし。
そんな変化の発見がまた嬉しいお年頃。