情報との距離
テレビを観ていたら本屋の女性店員さんが独断と偏見で選んでいる「新井賞」というものがあり、読書家たちの間では芥川賞、直木賞よりも時には信頼を得て売り上げを伸ばすのだと知った。
新井さんが選ぶから新井賞。
早速ツイッターで新井賞と検索する。これは最近息子に教えてもらった方法で、こうやって調べるとその件に関して世間のみんながどう呟いているかが垣間見ることができ、巷のことがよく把握できるらしい。
読書好きの間では有名な賞のようで、今年でもう9年目になるそうだ。
きっかけは、ある年の直木賞受賞作に「この本もすごく良かったのに」という憤慨に似た思いから、どうしてもみんなに紹介したくなった彼女が一人、はじめたことのようだった。
彼女自身、食事をするように当たり前に毎日何冊もの本を読んでいる。
大の本好きであり、ありとあらゆるジャンル、そして批評家とは違った観点からの選書が共感を呼び、本を愛する人たちはもちろんのこと、作家も編集者にも注目されているということがわかった。
「今年の新井賞は何だろう」
「今日は帰りに本屋寄って買わないと」
「さすが新井さん、この本私もハマりました」
「うん、うん、いいよねこれ、絶対おすすめ」
「私もこれ読んだ。じんわりきて心に響いた。深いよね」
今年の受賞は初のコミックで「ダルちゃん」というものだった。みんな口々に大絶賛している。もしくは、彼女が選ぶのだからこれはもうすぐに買わないとと、予約した、買ってきた、仕事終わったら買いに行くと盛り上がる。
ずっと読んでいるうちに読みたくなってきた。
近くの本屋で在庫を調べると隣駅の本屋にある。
よし、今日これから買いに行こう。
更にあれこれリサーチを続けていると、電子書籍版のお試しを見つけた。
読んでみるとそれは、胸に詰まるものだった。
主人公は24歳の若い女の子。だらりんと過ごすのが好きな「ダルダル星人のダルちゃん」なのに、会社では世間の女子と同化しようと作り笑顔と曖昧な返事でアップアップおどおどしながらも必死に毎日何とかやっている。
ある時、飲み会の席で若い男性社員の話にヘラヘラと閉口しつつも相槌を打っていると、職場の女の先輩にもっと自分の尊厳を守ったほうがいい、侮辱的な会話にまで愛想笑いなんかすることないと助言されびっくり動揺する・・・。
ここから彼女がどうなっていくのか・・たぶんここからの彼女の戸惑いや成長がこの話の醍醐味なんだろうというところで試し読みは切れた。
確かに、たった16ページにぐっと引き込まれた。先が読みたい。
けれど、どこかチクチクと悲しい。
今の私は読まないほうがいいかもしれない。
一旦パソコンを閉じる。
読みたい。買ってきたらきっと一気に読む。そして少し悲しくなるのだ。
自分の中にあるそれを見せつけられた。決別したはずの私がそこにいた。足を洗ったつもりでいても簡単にそこに連れ戻されるような、そんな危うさと不安定さと悲しさが私を襲う。
怖いもの見たさで読んでみようか。自分が本当に大丈夫か試してみるのにいいかもしれない。
これほどみんながいいと言っているものなら。
何とは無しに机の上に並んでいた宮藤官九郎のエッセイを開く。
買ってはみたものの、まだ読んでいなかった。
クドカンが映画づくり、ドラマ作り、ロケのこと、バンドのことを軽く鋭く潔く語っている。その口調の軽さにホッとしていることに気がつく。
今日は、とりあえずやめておこう。
ツイッターは私の場合、使い方を考えたほうがいい。
ハッシュタグで検索すれば、そのことについての呟きがダーっと集まる。そしてそれをかたっぱしから読んでいけば、大体の感覚はつかめるが、それを必要以上に追いかけていると、世の中みんながそのことに夢中になっているような錯覚に陥る。
すると、足元がぐらぐらしやすい私は「そうなの?そんなにいいの?」と、とてもいい情報をこれまで自分だけが取り逃がしていたような気分になってくる。
コアな人たちが集まって言っている世界なのだ。
ふらふらと迷い込んだ人間とは熱量が違う。
それなのに、これまで世間一般の好みと自分が一致したことはあんまりなかったという大前提をすっかり忘れ、熱に浮かされ、するりと簡単に波に呑みこまれてしまった。
まだ心も体もリハビリ中。
再構築した足場もまだ固まりきっていない、ユルユルのコンクリートだ。
今のところはまだ、我が家の陽の当たる窓際で自分の思いつきと閃き感で選んだ本だけを、のんびりタラタラ読んでいるほうがいい。
しかし、ダルちゃん、気になる。
買うかもしれない。