お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

さらにゆるくゆるく、ゆるく。

朝、息子がバタバタと階下でやっている物音がする。

時刻は5時。あれ。いつもより相当遅い。もしや、寝過ごしたな。

息子の自立宣言はお互いのために本当に良かった。

正面切ってあんなふうに「今日から俺には構わなくていい」と宣言された時は、嬉しさ半分、いきなり巣立っていった寂しさ半分で戸惑った。しかしああやって言葉で線引きをしてもらったことですんなり私も次の段階に移ることができた。

あ、そうか。もういいんだっけ。ことあることに思い出し、力が緩む。

あのまま、息子の様子を見ながら、どこまで手を出して、どの辺は放っておいたらいいかと手探りで接していたら、恐らく、そうは言ってもこれくらいはやってやらないとと、今だに息子中心の時間軸で動いていたと思う。

「今日、髪切ってくるから夕飯、冷蔵庫の中のもの、適当に先に食べといて」

この一言を言えなかったのは、実は私が私を母親という概念で縛っていたのだった。息子の方はもうとっくの昔から、そうしろと言っていた。

あれほど息巻いていた自分の食事は自分で作るということは、続かず、相変わらず私の作ったものを食べている。

それでも彼の中で「映画でも友達でも本屋でも、俺の夕飯のために切り上げてくる必要はない」という概念があるということは、息を楽にしてくれる。

起きなくちゃいけない、用意しなくちゃいけないではなくて、やりたいから起きる。作りたいから作る。

時間にも義務にも縛られていない家事は無責任で楽しい。

きちんとしたお母さんにはついぞならないままではあったけれど、今年は当てにならない母さんとして存在しよう。

きちんとしなくちゃっていうのは、自分だけじゃなく、周りにも圧をかける。

人に見せるための人生じゃないしな。

3月で50歳。修行の日々はもう終わり。ここからは、自分自身が死ぬ時「あぁ、面白かった」と満足して目を閉じる暮らしにシフトチェンジ。