お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

中の人と仲良く

いきなり絶不調の波が来た。

この波は昔からよくあることなので、それ自体には慣れている。さっきまで鼻歌まじりでスイスイ家事をこなしていたのに、突然、ゼンマイが切れたように、急に動けなったりするのだ。

これが私には長いことコンプレックスで、周囲には、特に母にはひた隠しにしてきた。

なんとか改善できないものかと、地道に散歩したり、できるだけ1日ひとつは、なにか生産性のある活動をして「そうダメでもない」と己を納得させてきた。

最近、これらを含めいろんなことが、どうでもいいやと思う。

なんのために、踏ん張っているんだ。わたしは。

役立たずと言われるのが嫌だった。

その評価に反応してしまうのは、実は私自身が自分をそう思っているからだというところまで、辿り着いたものの、なかなかそこから抜け出せなかったのは、頭じゃわかったつもりでいても、それがどういうことなのか、ちゃんと落とし込めていなかったからだろう。

自分で自分を認めるということって、こんなに厄介なことだったろうか。

それはただ、甘やかして自堕落になっていくのとは何がちがうのか。

 

好きなことは朝食のあと、録画していたドラマを見ながら、ゴロンとすること。

ぼんやり空を見上げること。

難しくない本を読むこと。

ラジオを聴くこと。

文を書くこと。

手紙を書くこと。

好きな言葉は、まったり、ゴロン、のんびり、ぬくぬく。

そんで、体力がないこの私。

これらを「それでよし」としたら、どえらいことになる。

ずっと漠然とした恐怖で「ちゃんとしている私」であろうとお尻を叩いてきたけれど、例えば今私が、無人島に暮らすとしてもそんなふうに頑張るかなと考えた。

きっと怠け者の自分のことだ、誰の目も無いとわかると安心して毎日だらだら三昧で暮らすことだろう。

じゃぁ、なんでこの今住んでいるここでそれができないの?

そんな生活を心より愛する自分と、周囲の人たちとのズレに罪悪感を持つから。

あぁ・・・私はやっぱり役立たず。

 

自分が自分をそうしている。これが、「あなたって、本当に頭がいいわね」でも、「あなたって本当に手先が器用ね」でも、実際はそうでもなくても、「ん、そうかも」と納得して受け入れちゃったらそれは私の現実になる。

そういう仕組みではないだろうか。

そんなことを考えていると、なにが本当でなにが妄想だか曖昧になってきた。

そして、一体私は何のために踏ん張ってるんだ・・となってくるのだった。

機嫌よく。柔らかく。穏やかに朗らかに。ユーモアをもって。

それで1日過ぎたら、また明日。それをつなげて、一年、二年。

自分の中からの声と仲良しになってしまおう。

そうやっていったらどういう自分に変化するかとか、周りはどう反応し始めるかは見ない、聞かない考えない。

ひたすら、中の声と仲良く過ごすのだ。

 

 

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ダラダラに飽きて午後から散歩。

紅葉が。

 

 

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お洒落な御宅の玄関はクリスマス。

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個人的にはこういった、昭和感満載のクリスマスも和む。