お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

ただ、それだけのことなのに

紫陽花が咲いた。

あの、朝にたくさんの蕾を見つけたときの感動はもうない。

あぁ、咲いたな。綺麗だな。頑張ってるな。私も頑張ろう。

そう思うだけ。

父が死んだ時、もう、明日から自分はどうやって生活していくのか、生きていけるのか不安だった。会えないとわかっていても恋しくて時間をたどっては娘だった頃の「私のお父さん」を探した。

22年経っても父は消えない。でも死んだのだと、当たり前のこととして暮らしている。

人は面白い。

自分の身の回りに起きた現象に感情を乗せて、悲しみ、喜び、心を震わせる。

捉え方、感じ方は何万通りもあるのだから、他人からしてみれば悲しんだり恥じたりする必要のないときでも、自身の過去の経験にとらわれて出来上がった思い込みから、心を痛めたりもする。

紫陽花が咲いた。

父が死んだ。

病気になった。

息子が大学に入った。

夫と心が繋がった。

母が発言した。

服を買った。映画を観た。母の日にプレゼントをもらった。友達と会った。

全て、地球上で起きている出来事。

でも個人にとって事件であったり、感動であったり。

不思議。

過去の一つの衝撃も時間がたつと、そんなこともあったで片付いてしまう。

それがわかった今。そのことに気がついた今。

それでも私は日々のことに心を揺らす。

波が来ればそれにのまれたり、アップアップしたりする。

嵐はやがておさまるし、いつかはこれが過去になる。

わかっていても心はどうしても揺れる。

でも揺れるから

ある朝紫陽花の蕾に感極まり、沈む夕日や心地よい風に幸せを感じとる。

揺れるのもいい。

紫陽花が咲いた。

朝の散歩をした。

美味しいパン屋を見つけて買った。

歯医者に行った。

そして、息子が昨日の夜また、口も聞かず帰ってくるなりベッドに転がり夕飯を食べずに寝て不機嫌なまま、出ていった。

それだけのこと。

ただ、起きているだけのこと。

なのに母は1日、心が揺れっぱなし。

幼稚園の頃のように、どうしたのと、何か嫌なことあったのと

言ってやれたら。