すべては自分からはじまっている
ずっと自分の中で「あのとき、あんな言葉を言われ続けなければもっと自分が大好きで、劣等感なんてものに無縁に生きてこられたのに」と引っかかっているエピソードや人が記憶のなかにずっと消えないである。
今の私は、随分と呑気な怖いもの知らずだった自分の原型に戻ってきたように思う。
それは自分の努力と、葛藤と、とことん傷を負って苦しんで辿り着いた勲章だと、傲慢にも考えていた。
吉本ばななの「人生って?」という本を読んでいたらこんな一文があった。
《他人の傷がどのくらいかは、ほんとうのところ決してわからないのです。・・・・(中略)放っておいても別のことで薬物中毒になったかもしれませんよ。》
相談者が過去の恋人を傷つけた。その相手が薬物に溺れてしまった。それ以来、人と深く関わることが恐ろしく、未だに軽い恋愛しかできずにいる、ということに対しての回答なのだが、放っておいてもその人は薬物中毒になったであろうという考えを、そうそう・・と同意しながら読んでいた。が、ハッとした。
放っておいても私は、きっと、自分の自信のなさや劣等感にぶち当たり、人と接することに細心の注意を払い、気疲れをし、落ち度なく、人並みの、いやちょっと気の利いた人であろうと毎日自分の尻を叩きジタバタしただろう。そして、そのことに疲れ果て崩壊したことだろう。
辿る道のりは違ったかもしれないが、行き着く先はどの道、自滅だったはずだ。
全てはわたしから始まっていると、最近つくづく思う。
起きている現象はただ、起きただけで意味はない。
それをわたしの思考が色付けし、脳に送り込んでいるだけなのだ。
思考はコンピュータでいうならOSだろうか。いくら、記憶の入ったソフトを削除したり、上書き保存したところで、OSが同じなら、また似たような現象に出くわせば同じように処理をするだろう。
工場初期化。バージョンアップ。もしくは、アップルからアンドロイドにするようにシステム自体全総取っ替えするしかない。
するしかない・・・じゃなくて、初期化さえ、してしまえばいいだけのことなのだ。
近ごろ、頭よりカラダの声、心の声を頼りに過ごすことにし始めたら、毎日が新鮮で自由で、ワクワクする。しかし同時に先の見えない不安をうっすらと感じる。その理由がわかったような気がした。
使ったことのないシステムを導入したばかりだからだ。50年近く使い込んできた慣れ親しんだものを捨て、新しいものに切り替えたものの、まだうまく自分本体と馴染みきってこないからだろう。
本当にこのシステムであっていたんだろうか。チョイスミスではなかっただろうか。
そんな不安。
それでも、昔のものはもう、エラー続出で使い物にはならない。あれを使い続けていたら間違いなく本体がやられてしまう。
もう、戻れない。
戻れない?本当に?
新しいものにも不具合を感じたら、いつでもまた工場初期化すればいい。
それだけのことじゃないか。
失敗したと思わない。今までの道のりがあっての今だ。
だからこれからの失敗はその先に続くための通過点だ。
そして、みんな案外、こんな風に探り探り生きているのかもしれない。
気楽に気楽に。