お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

スポットライト

昨日、「フジ子・ヘミングの時間」というドキュメンタリー映画を観てきた。

規格外の人。天才。神に選ばれた人。

そんなイメージを持っていた。独特の服装や暮らしぶりにそう勝手に思い込んでいた。

私だけではないと思う。メディアでも彼女のことは、浮世離れした人のように扱う。

ピアニストという職種も、60歳を過ぎてから世界的に評価され有名になったことも、ドラマチックに彼女の人生を飾る。

二時間の映画をずっと見ているうちに、不思議な感覚になる。

彼女の人間としての可愛らしいところと一緒に、人の目を意識してガードしているところ、傲慢なところ、気の弱いところ、意地の悪いところがチラチラと見え隠れする。

驚いたのは、あれだけの才能があってもやはり、家庭を持たなかったことを「持てなかった」と言うのだ。

グランドピアノを何台も持ち、地位も名声も手に入れ、世界中に何件もの自宅をもち、その国々に友人も飼い猫もいても、そんなことを言う。

ドラマチックなメガネで見ているのはこっちで、見られている対象物は、やはり「人」なんだ。寝て起きて、食べて、寝て。私たちと同じく淡々と日々を重ねてきた「人」。

そんなことを思った翌日、今日。

祖母のところに行った。

101歳の彼女の人生はただの女の一生かもしれない。

少しドラマチックなのは44歳で夫に急死され、そこから一人で子供3人育て上げたことだろうか。

100を超えて生きている、それだけでもドラマチックだ。

車椅子になったが、それでもまだまだ頭は達者で、冗談を言う。

 

そしてその帰り道、例によって母が寄り道をしたがる。

二子玉川で途中下車をし、H &Mのバーゲンに連れて行ってやった。

あまりの安さに興奮してはしゃぎ、店内を歩き回る。

それを眺めているうちに母もまた、ドラマチックの真っ只中なのだと思う。

若くして父親に死なれ、母の留守中、家事を引き受け、結婚してからは夫、姑に使え、子育てを必死にこなし、今やっと自由なときなのだ。

青春時代を家事に費やした彼女にとって今こそ、本当に解放されたときなのだろう。

 

少し前まで「みんな、なんだかんだ言ってもただの人」と感じていたが、実はそうではない。

みんな、ドラマチック。

 

多分私も遠くからそう見ようと思えばそうなるのだろう。

夫も。姉も。息子も。あの人も、この人も。

近すぎるとなかなか立体的に全体像を見ることができない。

少し、離れて多角的な視点で眺めると、その人の物語が見えてくる。

 

メディアが取り上げなくとも。

誰もがドラマチックに生きている。