お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

あれがあっての今

夫とやっていけないと思っていた頃、私は自分だけに意識を寄せていた。

息子のことも夫のことも、食事や清潔な部屋と服を用意して、ちゃんとはしていた。

疲れても泣きたくても、我慢、というよりは、それを表現することと認識していなかったので、ただ、やるべきことだけを、淡々とこなしていた。

それこそ、ちゃんと。

とりあえず、ちゃんとやっているというだけ。溢れてくるような愛も、血の通い合うゆったりとした会話も空気もなかった。

ホッとするのは納戸に置いた机の前。

これをやったら、これが済んだら、あそこに行こう。

まるで息継ぎをしにいくかのように、そこで本を読み、動画を眺めて過ごす。

今にして思えば、息苦しいのは、そんな妻と毋と生活していた彼らの方だったろう。

そんなこともわからず、完全にこじらせた私は「こんなに辛いのに、やるべきことはやっている」と、自分のことをおかしいだなんて思ってもいなかった。

 

毎週毎週、家にいない夫と反抗期の息子、介入してくる母、気が狂いそうだった。

・・・狂っていたのかもなぁ。

あるとき夫と並べてくっつけていたベッドを壁と壁に放し、部屋の天井からカーテンを吊るして寝室を分断した。

罪悪感もあったが、どうにもこうにも、深夜夫が机で鼻をすする音も、無神経にするオナラも、荒い動作でガタガタゴソゴソと立てる音も、全てに我慢ならなかった。

どうせ、離婚するなら、最後のあがきで、やれるとこまでやろう。

責められようと、もめようと、やけくそだった。

それは自殺するくらいなら、納戸に引きこもる方がまだマシだろうという、開き直りとも似ていた。

どんな1日にするか、何をするか、何をしたか、充実していたかなんて思う余裕もなかった。とにかく、今日も死なないでなんとか乗り切った。とりあえず、もう一日、生きてみよう。そんな感じで毎日を繋いでいた。なりふり構わず、必死だった。

 

帰宅した夫は、どう反応するだろうかと黙って様子を伺った。

「アレェ。なんか、寂しいなぁ。なんか、意思を感じるなぁ。寂しいなぁ」

笑ったことにホッとして、腹が立った。伝わっていない。私の必死さを全くわかっていない、この人には。

やっぱり自分だけが被害者だというように妻は苛立った。

あのとき、夫は何を感じて、そう言ったのだろう。

私が思うほど深刻に受け止めていなかったのかもしれない。

夫のそういう鈍いおおらかなところに私はずっと救われ、苛立ち、やっぱり救われて生きてきたように思う。

 

寝室内の変化に気がついた反抗期中の息子が、私と二人きりになったとき、言った。

「離婚はしないだろうな」

「大丈夫、あれで、しばらくやっていける。」

死ぬ死なないで心配をかけて、次はこれ。どうしようもない母。

 

あれが地獄の底を蹴ったときだったのかもしれない。

蹴った反動でゆっくりゆっくり浮上し始めたように思う。

それから半年くらい経ったのち、息子の部屋に行き、頭を下げた。

「いろいろご迷惑とご心配をおかけしてすみません。もう、大丈夫です」

「お。よかったよかった」

それだけだった。

あのとき息子は何を感じ、そう言ったのだろう。

 

愛の中で一人、もがいていたと気がつくのも、それから5年後。

愛しかなかった。愛だけがあった。

家の中での息継ぎが最近、楽になってきた。

 

夫の単身赴任は、お互い、いいことだったと思う。

主に私にとって。

帰ってくる前日になると、やっぱりウキウキする。

また、私はイライラするのだけれど、今の私は「もうっ」と言う。

言って怒って、笑う。

「ごめんごめん」夫も笑う。

「オメェ、悪いと本当に思ってねぇだろ、口先だけだろ、今の」息子も笑う。

怒って笑って、喋って、また怒って、笑って。

 

見送る時はいつもかわいそうになる、寂しい。

 

今、息子が休みで連日家にいる。今日は学校に用事ができて出かけた。

いってらっしゃい、と言いながら、やれやれとホッとする。

帰ってくると思っているからだ。

夫が兵庫に帰るとき、次、いつこっちに帰ってこられるかわからない。

やれやれ、と思うのは同じだが、「いっちゃった・・・」と思う。

そして、そんな風に感じている自分に戻っていることに気がつき、ちょっとホッとするのだ。

 

明日。夫が帰ってくる。