不意に思った
今日も草をむしる。
やっていると夢中になり、ここ数日午前中日向ぼっこがてら庭に出ている。
「私、意外と家庭菜園とか始めたらはまっちゃうかもしれない。やってみようかしら」
昼ごはんを食べながら、一仕事終えた充実感から調子に乗ってそう言うと、こちらは遅い朝食を食べていた息子が即呟いた。
「やめとけ。ミニトマトくらいにしておけ」
確かにその通りで、ご飯を食べながらももう眠い。頭は高揚していて晴れやかなのに体はだるく、疲れている。夕暮れ時に赤ん坊が眠いのに眠れなくてぐずるのは多分、こんな感じなんだろう。
それでも心地よい疲労感だ。運動会の後のようなこの感じ。
土をほじくっていると、不意に無になっている瞬間がある。そんな時、ポッと閃きのようなフレーズが頭に浮かぶことがある。
整わないまま、出て行こう。ダメな時こそあえて人に会ってみよう。
これまで私は自分のコンディションが良くない時は人から離れ、一人になってじっと傷が癒えるのを待った。
心のコンディションも、体の方でも。
心が痛くて息もできない時は引きこもり、じっと自分と対話した。
何が辛いのか、どうしたらいいのか、どこに原因があるのか、煮詰めて煮詰めて本を読み、文を書き、暗い穴の中で一人もがいた。
体の具合が悪い時はそれを隠し、地味に一人うずくまる。
頭の中でどうしたものかと考えながらただひたすら横になり、夫や息子が大丈夫かと聞いてくれているのに「大丈夫だ」と答える。
だってこれは私の問題だから。私のことだから。
そうやってきた。
悲しみや辛さなんて自分の中で処理するものだと思ってきた。
そして私はそれができると。
整わないまま出て行こう。ダメな時こそ人に会ってみよう。
弱っている時、心も体もダメな時は見た目もカッコ悪く、ボロボロになっている。お風呂に入るのすらしんどく、食事もろくなものを食べる気力もない時、髪はパサつき、おしゃれをする気力もない。
元気になってもう少しマシな状態になったら。
もっと楽しい会話ができるようになったら。
もう少し体重が増えたら。
こざっぱりした髪にしてお化粧する気力が出てきたら。
そうしたら習い事をしに行こう。美術館に行こう。夫を映画に誘おう。友達にも会いに行こう。
一体いつになったら私は整うの?
ダメな時こそ、そのまま出て行こう。
もっと人を信じよう。
受け止めてもらおうだとかそんなこと考えるな。それこそ依存だ。
自分の足で立つと言うのならば、そのまんま怖れず人に会うのだ。
人との会話で、人の中に入ることで、外の空気を入れることで、自分で自分を癒すのだ。ダメなままの自分でも楽しくやっていける世界のはずだ。
もっと自分いる世界を信頼しよう。
私の周りにいる人は私を傷つけない。
自分を傷つけるのは、自分しかいない。
人の言葉に反応する私の解釈が、自分を傷つけるのだ。守るのも自分。楽しむのも自分。気にしないことができるのも自分。
もう私は自分を傷つけない。
元気が無いとき、ダメな時、かっこ悪い時、見た目が整ってない時こそ、そのまま出て行こう。
そうしたらそこは安らぎの場所になる。
そうしたらそこも自分の世界になる。基地になる。
急がない。
まだ思いついただけだから。少しずつ試していこう。
何も期待しないで、無になって試し続けていけばいい。
昭和は無邪気に突っ走って遊んだ。
突っ走っていたらドンっと厚くて硬い壁にぶつかった。
平成は修行の時代だった。子育て、父の死、母との葛藤、姉との違和感、夫との関係、危篤、鬱。
令和。令和は愛。自分を愛の世界に。愛で包んで扉を開ける。
開けた扉から入ってくるものは受け入れ、飛び立つものは見送り、自分自身もどこにでも出ていこう。
どこにいくでも、自分に愛のベールをかけてあげて。守ってあげよう。
もう、私は自分で自分を傷つけない。