私も母もどこかの誰かも、同じ、ただの人。
最近、母のことがそれほど恐ろしくなくなってきた。
今でも一緒に長時間いると、苦しい。できれば、離れていたい。
それでも、「とにかくなんだかんだ言っても、可愛い人だ」と思う。あれだけ、恐ろしく、恐怖の元だった人なのに、この展開には自分でも少し意外だ。
私は息子を育てるとき、「私がこうなってほしい、と言う理由だけで彼を追い立てないようにしよう」ということだけ気をつけた。そりゃ、勉強もスポーツもこなし、たくましく少年から青年へと爽やかに成長してくれれば、私の理想だけれど、そうはいかなかった。幼いながらにも彼には彼の理屈があって、優先順位もやりたいことも、欲しいおもちゃも本も、全て私の思っていた男の子とは、ずれていた。
今では格好いいこと言っているけれど、小学校低学年の頃まではやっぱり諦めきれず、もっと運動して欲しい、もっと外遊びをして欲しい、もっと、もっと・・・と自分の好みと実際の息子とのギャップにいつも埋めよう埋めようとあれこれ策を練ったりしていた。その時は、彼の望むこと、喜ぶことより、自分好みの息子かどうか、それが大きかった。
ある時から、それを手放した。いよいよ私の体調も悪くなり、戦うだけの気力もなくなってきたので手放すしかなかった。
どういう大人になっていくのか。それを邪魔しないでただ、ひたすら花に水を与えるみたいに、じっと見ていく。そう決めた。
弱った今の自分が中途半端にあれこれ枝を剪定して、致命的な傷を残すくらいなら。そうしよう。腹をくくるしかなかったのだ。
単純だから、そう決めた途端、彼の言ってくること、やることなすこと、何もかもが面白くなってきた。何しろ、私に責任はないのだ。こういう人にならせようと言う設定がないのだから。ただ、心と体だけは健やかに。そこだけ。ぐっと気が楽になった。
そんなざっくりした子育てだから、息子は超優秀な成績でもなく大学に進学したけれど、確実に自分の好きなもの、人、やりたいことが自分の中にある。ネットもテレビも流行りもチェックしてるけれど、それを眺めつつ、自分の道を進んでいる。
人は、もしかしたら「こういう人間になる」って決めて生まれ来ているのかもしれない。
それを私ごときが、浅知恵であれこれやったところで、無力なのだ。引っ掻き回して混乱させて、下手すると進行方向を見失ってしまうところだったかもしれない。
母も、こういう人として生きるって決めて生まれてきたのだ。きっと。
そして、私も。
そう考えたら、いろんなことがもう、どうでもよくなった。
理解して欲しいとか、そんなことすら。どうでもいいや。
我もただの人。彼もただの人。みんな、みんな、ただの人。
そして、みんな、それなりに一生懸命。
可愛い人たち。私たち。