どってことないことだった
ドトールでコーヒーを大量にぶちまけた。
幸いトレイの上に収まり、床にも服にもこぼれなかった。
それを確認すると、自分に「落ち着け」と言う。
まずは大事な大事なiPadだ。これは大丈夫か。持ち上げてみると少しテーブルに飛び散った液体が本体のリンゴのマークにぺちょっと付いている。ハンカチですぐに拭き取る。キーボードは、カバーは、接続部分はっ。飛び散り程度の被害はあるが、致命的なところにはかかっていない。よし。これが無事ならなんでもいい。
大丈夫だ、慌てなくてはいけないことはない。ゆっくりでいい。
もう一度自分に言う。
コーヒーは全部こぼしたわけではなく、半分くらいがなにかがぶつかった衝撃で揺れ、外に溢れ出たようだった。まだ一口も飲んでいない。けれど、普段はブラック派なのに、その日に限ってクリームと砂糖をいれたところだった。
こぼれた大半を受け皿が、言葉通り受け止めている。あとは、トレイに流れ出た。
これをどうしよう。一瞬、トレイごと持って行って取り替えてもらおうかと思ったが、並々とコーヒーを受け止めた皿をみて、よし、と思う。
そうっと持ち上げ、カップに戻す。やっぱりほとんどがここだったようで、カップはほぼ、もと通りの量にもどった。あとは、このトレイ。
ここまでみっともないことをやらかしているとむしろ、開き直っている。立ち上がり、カウンターのところまで行って紙ナプキンを4、5枚束で持ってくる。
席に戻る際、みんなの視線が気になりちらりと自分の席の周囲を見渡す。私のこの惨事を「あぁあ、やっちゃった・・・げ、ソーサーからコーヒー戻してるっ」と見守っている人達がいると思っていたのだが、意外なことに誰も気がついていない。あんなに大きな音がしたのに。だれもが自分のひとときに夢中なのだった。本を読むひと、食べるひと、目をつぶって瞑想している人、スマホを眺めている人。みんな自分の世界にすっぽり入っていて、外で起きている出来事には関心が及んでいないのだった。
そんなもんか。そんなもんなんだよな。
そう思うと急にこの空間がとても自由に、軽い周波数の居心地のいいところに感じる。
自意識強く、みんな自分をこう見てる、こう思ってるなんて考えている私の頭が息苦しくさせているだけだったのだ。
そんなに息苦しいとこじゃないんだな私の住む世界は。
視線がないとわかると尚一層、のんびりと、トレイを拭き、それを食べ終わった食器を戻すところに置いて、今度はそこにいつも置いてある清潔な台布巾を借り、丹念に丹念にiPadとキーボードを拭いた。
台布巾を戻しに行きがてら若い女の子の店員さんに
「すみません、コーヒーをトレイにこぼしてしまったので、新しいトレイとお手拭き、いただけますか」
と頼んだ。
彼女はポカンとした顔をし、それから事態を把握したようで
「あ、はい。それで、お飲み物はなにをご注文なさいましたか?」
と聞いてくれた。
「いや、コーヒーの方は、大丈夫です、トレイだけで」
「でも・・・」
そりゃそうだ。こぼしたと言っているんだから、このお客はもう飲むものが無いと新しいのをあげましょうと思ってくださっているのだ。
まさか、皿から戻しましたとはさすがに言えず「いえ、本当に、大丈夫ですから」とモジモジしていると
「そうですか?わかりました」
と、となりにいた更に若い女の子にキビキビと「トレイとお手拭き」と指示をしてくれた。
なんどもカウンターを行ったり来たりして、現状復帰までの数分間。
だぁれも見ちゃいなかった。
そんなもんか。
そんなもんだよな。
この世はもっともっともっと気楽に生きて大丈夫なようだ。