痩せ我慢
「げ、庭にタヌキみたいのがいる!」
朝食を食べていた息子が叫んだ。
「あ、それ、ハクビシン」
おっかながりの息子が騒ぎ出さないよう、わざとゆっくり、さもよくあることのように返事した。
洗濯物を干していた手を止め覗きに行くと、やはり、固まって食事は中断されている。
我が家の男どもはすべての虫が怖い。
結婚まもない頃、2DKのアパートの6畳間にゴキブリがでた。何が嫌ってゴキブリくらい恐ろしいものはなかった私は、即、襖を閉め、夫の帰りを待った。ほどなくして帰宅した夫が背広を脱ぎに入って行こうとしたとき、殺虫剤と新聞紙を持たせ
「さっき、ゴキブリがでた、退治して」
と言い、また、襖をしめた。
「そんな、僕だって嫌だよ、できない」
びっくりした。
男とは、虫退治をする者だと思い込んでいた。実家では男は父だけだった。電球が切れたらお父さん。ゴキブリが出たらお父さん。テレビの映りがわるければお父さんだった。
父は文系男子だったので、けっしてメカにも虫にも電気にも詳しくなかったが、頼まれると観念して対処してくれた。男はやせ我慢のできるヤツでないとダメだぞというのが口癖の彼は、きっと心の中では「俺だってやだよ」と思っていたのだろうが、やせ我慢で虫を追いかけてくれた。
虫を捕まえられないと言ってのける男がいるのか!衝撃だった。もしかして、私はとんでもない男と結婚してしまったのかもしれない。
「嫌だって言ったって、私だって嫌だ!この家で過ごす時間が多いのは私の方なんだから、ちゃんと退治して!終わるまでここ、開けないからね!」
非情な妻である。しかし夫はやせ我慢などしない男だった。
「やだよー。トンさん、開けて!とりあえず、落ち着こう。開けて!」
結局新婚夫婦は二人で六畳間にもどり、おっかなびっくりなんとかやっつけた。
あれが力を合わせた最初のイベントだったかもしれない。
窓から覗くと確かに鼻筋と額にTの白線を引いたハクビシンが柿の木に登っていた。
窓を開け木の下に行き、じっと見る。目があう。向こうもこっちの様子をうかがっているのか、じっとうごかない。
「なにやってるの?」
そう声をかけると、ノソノソっと、枝を降りる。しかし、木から降りようとはしない。甘い柿を見つけ、あきらめきれないのだろうか。やり過ごして食べてやろうと思っているのか。
木に向かって歩み寄る。すると、やっと不器用にのドタ、ドタっと素早くもなんともない緊張感のない様子で木から降りた。それでも隣の家の垣根にのぼり、ゆっくりゆっくり歩いて立ち去るふりをしながら、こっちを見てる。
私もじっとみつめる。向こうは立ち止まり私が去るのを待つ。私はさらに歩み寄る。視線が合う。
ちぇっといった感じでやっと諦めたのか、今度はさささささっと小走りに塀の向こうに消えていった。
「向こう行ったよ。あれだけ、近づいても、こっちに向かってこないから大丈夫、危害は加えないよ」
母が庭でハクビシンと真剣勝負をしている間に優雅に朝食を続けていた息子が
「母ちゃんには怖いもの無いのかよ」
と、呆れたように言った。
「昔はいっぱいあったけどねぇ。父さんに鍛えられたからねぇ」
本当はわたしだってドキドキしていた。が、やせ我慢をしたんだよ。
ああ。ここで、やだ、怖い、どうにかしてと、一緒にやっていれば息子のやせ我慢が育つのかもしれない。
母は強すぎちゃいけないのかもしれない。
男はやせ我慢。女は・・・座った肝は隠すべし。