お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

合間合間に座るところへ

寝室の机の位置を変えた。

ドアのすぐ近く、開けたらそこ。

一年前、3畳の納戸を整理して小部屋ほどのスペースを設けた。ここに机と本棚を置き、自分専用の基地にしていた。誰の侵入も許さず、ドアを閉めきって籠っていたのだが、夏場は扇風機を置いたくらいでは我慢できないほど暑く、去年の夏、炙り出されるように観念し、這い出した。

また秋口になったらここにきっと戻ってくるぞと無念の退室であった。

それから寝室に、一階のリビングにと、あちこちに自分の専用コーナーを求め、机を置いてみるのだが、部屋全体の見た目がいい場所と、居心地の良さの両方を兼ね備えた場所は、我が家の中では難しい。

二階の寝室の隅は、まあまあ、落ち着くのだが、家事の合間にちょっと腰掛けるというのには、わざわざ階段を上がってというのが億劫で遠のく。それではと、リビングの一角に置くと、読みかけの本も開いているパソコンも家族の目につくので安心して自分の世界に集中できない。

家族が揃って家にいるときに二階に一人上がり、パソコンに向かうというのもタイミングが難しい。

結局寝室の窓の前に置いていた。

二階の窓からの夕焼けが好きな私は、机に向かいながらこれを見ることにこだわった。

自分に浸るのには快適だったが、窓は部屋の奥になる。たいして広い部屋でもないのに、意外とこのドアからの2メートルほどの距離が机に座る回数を減らした。

これが済んだら、あそこに行って、、と思うのだが、意外とまとまった時間が持てない。誰がどう手のかかるというわけでもないのに、「では、わたくしはこれから籠ります」というタイミングは難しい。

変なこだわりで、机は自分の聖域と思っていたから、きっちり気に入ったポジションを確保できないと嫌だった。「窓からの夕焼け」と「家族から切り離れた空間」というのはどうしても譲れない条件だったのだ。

快適でも使う頻度が減ると、それはそれで「使い切れていない」とが常に頭にあって、小さなストレスになる。上等な服でも食器でも、持っていたって使わなくては意味がない。どんなに夕焼けが美しく見えようとも、そこに座らなくては意味がない。

夕焼けは、夕焼け。

机は机。

IKEAの椅子を窓脇に持ってきた。ここは、夕焼け専用の場所。

本も読まない。テレビも観ない。何もしないぼーっとしたくなったときの場所。

机を入り口脇に置き、本棚を机の前に置く。

ここは二階に上がってきたついでにちょっと腰掛けて、作業をするところ。

なんとなく、目についた本をパラパラめくったり、パソコンでブログを書いたり、手紙を書いたり、新刊のチェックをしたり、お手軽料理を検索したり、写真の整理をしたり。

ドアを開けっ放しにし、一階の物音も人の気配も感じながらここに座る。

時々私に用事のある人が下から呼んでも、聞こえるし、返事もできる。そのまま立ち上がって階下に降りていくのも、気持ちの流れが自然に主婦に母にへと戻っていける。

納戸に籠っていないとダメだったときは、家族ですら拒絶し、殻に閉じこもって呼吸していた。そうしていないと自分が壊れる気がしていた。

今は、硬く閉じた貝の口が半分開いて呼吸をしている感じ、というところか。

いや、むしろ私の方が、家族の体温も感じつつ、自分の好きなことをやれる場所を求めている。

台所の湯気、家族の観ているテレビの音、物音、笑い声。

一人っきりも好き。

誰かの気配を感じつつ時間を過ごすのも落ち着く。

寝室のドアはいつも開けてある。

アイロンをかけたシャツをタンスに入れるために二階に上がり、ついでにちょっとだけ机に座る。

ちょっとだけ。

ちょっとのつもりで広げた本が面白くて、気がつくと30分、40分とそこで過ごす。

あ、ダメだ戻らないと。と思いつつ、もうちょっとだけ・・・。

これが毎日の生活の中にちょいちょい入る。

今、机は家事の中に溶け込んだ。

一人っきりの聖域のような神聖な場所はもういらない。

お母さんをやりながら、娘として返事をしながら、奥さんとしてインターホンに応え、電話に出ることも、しつつ、その合間合間、腰掛ける。

飴玉をポイっと口に入れるように。

ちょっとホッとするところ。それがすぐそこにある暮らし。

完璧な場所じゃない、中断される前提の場所が、今はしっくりくるのかもしれない。