紅金時
サツマイモを蒸した。
細い細い牛蒡みたいなのが5、6本ビニールに入って230円。
【見た目は悪いけど、甘味たっぷりでおいしいよ】側に手書きのポップが書いてある。
知ってます。これはこれで、けっこう滋味深いいいお味なんです。
中学生の時、学校から帰ると、祖母が台所で新聞を読みながら蒸かし芋を食べている。
「とんちゃん、おさつが蒸けてますよ」
ちょっと得意そうに言う。
細っこいサツマイモが湯気を立て、大皿の上にごそっと山盛りになっている。
祖母はそれをポキっと5センチくらいに折り、薄紅皮のついたまま、囓る。ゆっくりゆっくり咀嚼してから飲み込むので、たった5センチを長いことかけて食べる。左手に芋を握り、右手でテーブルに広げた新聞を抑え、度の強いメガネを外し、紙面に顔をぐっと近づけモグモグモグモグ。
その顔をふっとあげて、にっと得意そうに「おさつ、ふけてますよ」と言うのだった。
小学校を卒業した翌日から同居を始めた。母は急にお行儀が良くなり、面白くなくなった。
お昼にカレーパンを買うことも、外出した帰りに駅前の焼き鳥を買うことも、夕飯にラーメンが出ることも、今日はお父さんが出張だから店屋物を取ろうということもなくなった。
今にして思えばきつい性格の祖母に、できた嫁だと思ってもらえるよう、張り詰める日々が始まっていたのだ。
学歴重視の祖母だった。父の姉は国立女子大を首席ででた。その息子たちも東大に行った。父も私立名門に入学した。その下の末娘も私立女子大に通わせた。さぁ。息子の嫁を見つけましょうと思っていたところに、父が連れてきたのが母だった。
父親に死なれ、家計を助け家事を引き受けるため、高卒で会社勤めに出た母は、祖母にしてみたら満足できない相手だった。片親で高卒の生意気生な小娘。それと結婚するという息子。面白くない。
結婚してからも学歴がないことで随分馬鹿にされて悔しい思いをしたと、いまだに母は言う。私の姉を御三家の中学に入れたとき、どうだ、と思ったそうだ。
申し訳ないことに、その妹は体が弱く、ヘラヘラとした、テレビが大好きな、秀才でもなんでもない冴えない子だった。
祖母は当然、姉には一目おいたが、私のことは舐めていた。
テレビを見て、ゲタゲタ笑っていると私の後ろをすうっと通り過ぎながら
「ま、たまには馬鹿になるのもいいでしょう」
と、日本茶の入った湯呑みを持って自分の部屋へと戻って行く。
「あらやだ、たまにじゃなくて、私いつも馬鹿なのよ」
「とんちゃんには敵いませんね、あなたは、天使の子なんじゃないですか」
皮肉もウィットに富んだ憎めないばあさんだった。
ケチで、わがままで意地悪で、あちこちでトラブルを起こす嫌われ者だった。
葬式の時ですら、誰も泣かず、彼女にやられた恨みつらみを陰でいう輩もいた。
あなたもやっと自由になれるわねと、母を労い笑っているそのおばさん達に無性に腹が立ち、悔しいのと悲しいのと、訳のわからない涙がボロボロ出てきたのを覚えている。
一番できの悪い孫だったのに、私は一番祖母が好きな孫だった。
父の単身赴任中、毎晩私が用意した夕飯を2人で食ることが多かった。毎月2、3日、母が父のもとに行き、姉は大学の部活動でいつも帰りは遅かった。
舐めているといことは、油断していると言うことなので、祖母は私と2人になると、お酒を飲んで陽気に歌を歌い、戦時中の話をしたり、普段の「教養のある明治の女」とは違う一面を出す。
それは楽しい、2人だけの宴会だった。
細いサツマイモは、貧乏くさいと母も姉も父も嫌がって食べない。
しかし、私はこの、折ると根っこの筋が顔を出すくらいの牛蒡みたいな食べ物が、スティック菓子のようで好きだった。
嫌われ者と、冴えない末っ子の2人組は、このひょろひょろした芋で繋がっていたようにも思う。
「とんちゃんと私は、芋仲間ですね」
今日は芋仲間の命日。
最後の最後まで矍鑠とした人で、風邪をこじらせ入院し「頼むから一切余計なチューブをつけないでくださいよ」と医師に言い渡し、国立病院の院長が「敬服致しました」と、息を引き取り出て行くときにエレベーターホールまで見送った。入院期間三日。父が亡くなった2年後の93歳だった。
ジャーっと水で皮をゴシゴシ洗う。鍋に水を張り蒸し網をセットして、ゴロゴロっと放り込む。沸騰してから弱火で20分。
綺麗な花でも和菓子でもない。湯気のたった牛蒡のような紅金時を、仏壇に備えた。