お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

尊い

多忙な1日だった。

月曜日に検診があるので、そのための採血に行く。予定はこれだけだったのだが、生協が届き母の注文したものを届けに行ったり、電話回線の工事の打ち合わせ、買い物、そこに息子の食事やら衣替えやらと、小さな雑用が小刻みに入る。

夕飯の下ごしらえをして病院に行くと、採血は今日でなく2日前の予約であった。受付の人がせっかく来たんだからと、コンピュータを操作して当日扱いで入れてくれた。本当に助かった。

順番を待つ間、考える。

先生だけじゃない。事務の人、血を抜く人、そしてそれを月曜日の朝までに検査してくれる人、カルテを揃える人。私一人の診察だけに複数の人が働く。着る服、食べるもの、今日の生協も。

それが彼らの仕事なのだとしても、私の生活は無意識のうちに他者の力の上で成り立っている。

夫もどこかの誰かを支えているはずだ。

思い出した。

息子は私のものではない。神様から預けられた命。社会に戻すまでの養育が私の仕事。

息子がフニャフニャしていた頃から不思議とそんな概念があった。

大学で自分の方向性を定めたようなので、やや一段落と一丁上がりは間近くらいの気分でいたが、地球の一員として彼が自分の持分を支え始めるまでは、まだ、気を抜くには早いのだなぁ。

家に帰ると、今日、初めてのライブに行く息子が落ち着かない。

「ドキドキしてきた」

ペンライトもどう振ってみたらいいのかわからない。

「本来、オレはこういう物を買ったりするキャラじゃないんだ。不本意だが、何事も形から入るのが大事だからな」

しちめんどくさい。

「自我を捨ててぞの場を楽しんでおいで。誰も知ってる人いないんだからノリノリになって振っておいで。きっと楽しいよ」

その間隔はゆっくりゆっくり伸び、回数は減りながらもときどき、不安やモヤモヤを紛らわす道具として声をかけてくる。

「な、母さん」

「なんだよ、もう!」

そう呼ばれることもこれからぐっと減るのだ。あと何回あるのだろう。

夕飯前に多忙だったなぁと、一人ホッとして風呂に浸かる。多忙だと思い多忙ができる今この瞬間が尊い