お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

見守るということ

門の修理の職人さんたちが来ている。母も姉も出かけるので、留守番を頼まれた。

積ん読だった、でも、まとまった時間で腰を据えて読みたいと思っていた本をたっぷり読んだ。

3人の作家の本。それぞれが呟いていた。

3人の心が表現されたものを読み終えた。

一日の終わりに思う。人は誰でも、どんな人でも、漏れなく、誰も共有することのできない苦しさや切なさを抱えて日々を送っている。

そこが気になって気になって、フォーカスする人。あえて、そこに焦点を当てないようにして、エネルギーや作品に昇華する人。まだ、その人自身も、そこが基点なのだと自覚していない人。それぞれだけれど。

頭を洗ってあげることはできても、代わりに食べて栄養補給をしてあげることができないように、きっと、ある程度のところからは、そこには誰もついて行ってあげられない、個の世界。

私は、そこにじっとうずくまるのが好き。時々、その個室に独りっきりで潜って行って、自分に会いに行く。苦しい時こそ、それをして、自分を確かめたくなる。

それが読書だったり、ブログの時間だったりするのだろう。

ここにきて、多くの人のブログから感じるものの、もっと深いところへは共有できない。想像して、悲しくなったり、熱くなったり、しんみりしたりする。

でもその人の中の最後の部屋までは、誰も入れない。

そんなことをぼんやり考えているうちに息子を想う。

彼にもその部屋があるのだ。

そして私はそこには入れない。

これから、その部屋にはどれだけの荷物が積まれて行くのだろう。

私は側で何かを感じ取り、何かをしてやりたいと思うが、できることはないのだ。

せめて、それを見守る私は、健康で陽気な優しさを持っていたい。

強くならねば。

強くなれる。