私の奇跡
この前、ラジオのアナウンサーの講演会に一人で出かけてみた話を書いた。
あの日、不思議な気分だった。足長おじさんにやっと会えたような、勝手な舞い上がりと、死にたいと自暴自棄になった自分がここまで心も体も回復したのだという感慨。感謝しかなかった。神様に、息子に、夫に、そしていつも変わらずそこにいて、ラジオの世界で生活の柱となって支えてくれたこのアナウンサーに。
そして、書いたら、その想いを届けたくなってしまった。
思い切って、駄目もとで、ここで書いた記事をツイッターにリンクを貼ってこのアナウンサーの番組アカウントに送信した。「勝手に書いてすみません。感謝状のつもりです。48歳主婦」。
48歳主婦と書いたのは、メッセージカードに名前でなくそう書いたから。何かの弾みであのカードとこの文章が繋がってくれればいいなと思ったのだ。
忙しいアナウンサーがこのツイッターに気がつく可能性も少ないし、気がついたとしてもいちいち、リンクされたこのブログまでたどって読むなんて手間をかけてくれるかもわからない。それでもいいと思った。自己満足でもいいから届けよう。
宙に向かって手紙を出す気分でやってみた。
そして、病院に行き、診察を受け、会計を待ちながらiPadを立ち上げた。
返事が、きていた。駅のホームで読んでくれたと書いてあった。
届いたんだ。つなっがったんだ。繋がれるんだ。
この衝撃。思わず天井まであるガラスに囲まれた待合室で、空を見上げて、iPadを抱きしめた。
彼は「よせやい」と照れながら、少し目頭が熱くなったと書いてくれた。私の言葉を読み、あの人がそんな反応をしてくれ、そのことを伝えてくれるなんて。
そして奇跡は続く。
今度はこの私が送った投稿に気がついて、リスナーの人も読んでくれ、ハートマークのいいね!ボタンを押していってくれた。みんなが暖かい。よかったよかったと、このアナウンサーを中心に、大きな見えない愛にエールを送られたような嬉しさだった。
そこにまた、続けて投稿して、みんなありがとうとか、アナウンサーに向かって感激ですとか、一瞬やりかけたが、やめた。
そうしたらまたそこにアナウンサーさんは返事をくれるだろう。そうしてそれに浮かれて私もまた何か書くだろう。
そこまでは求めない。
私はまた1、リスナーに戻る。多分番組投稿もしないだろう。
想いは届いた。
その奇跡で充分だ。
父の命日の日だった。
何かが動き出している。