お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

基地

夫が三連休で帰ってきている。息子はアルバイトで朝、6時半に家を出た。朝の散歩に夫がついてくるという。

「いいよ、めんどくさい」

あぁ。どうして夫にはここまではっきりひどいことが言えるのに、母には言えないのだろう。

「行くの。一緒に行く」

朝の散歩は私が自分に戻る時間。景色を人を空を眺めて、自分もこの宇宙の一部のパーツなのだなと思うと、誰も憎む必要もないし、自分を認めてもらう必要もないと、思える。昨日起きたこと、今も引きずっていることも、問題でも何でもなく、ただ、そういうことが起きているという現象に過ぎないんだと思い出せる大事な時間。

そこに執着するなというサインかも。二人で一緒に何かすることのない私たち。

夫と歩いても話が盛り上がるわけでもない。それでも短い時間の中でお互いの近況報告をコンパクトにして、歩きながら時間と景色を共有すると、わずかにあった距離のズレがぴちっと埋まるのがわかった。こういうことなんだな。

帰宅して、私は洗濯物を干し、夫はパソコンを立ち上げ、あとはお互い、好きに過ごしている。

夫は「やっぱり落ち着く。落ち着く。帰ってきてよかった」という。やっぱり基地なのだと思う。私も落ち着く。夫が私の基地なのではなく、私が夫の基地なのでもない。二人と息子一人のいる空間が私たちの基地なのだ。ときめかないし、いなくても正直寂しいとかあまり思わなかったが、こうして家の中にいると、最後の空いていたパズルのへっ込んだところがあって不完全だった絵が完成される。安定するのだ。

この人は、頑固で自分の意思を絶対曲げない。私がやめてくれと言っても、基本、ゴリゴリと自分を通す。それに引きずり回されて苦しんだり泣いたり荒れたり色々したが、よく考えるとこの人は自分を変えようとはしないのと同じく私を変えようともしたことはなかった。どんな病状になろうと精神状態になろうと、「頑張れ」とは言わなかった。

もっとこうすればいいのに。頑張れ。。

それを言われたことはない。私を変えようとしない人。要求してこない人。

私もそういえば、夫と息子に要求はない。

それぞれが揃って完成する羽を休める場所なのか。

それに、今日、気がついた。

苦しくてこの人ともうやっていきたくないと思ったあの時。

エネルギーと勇気がなくて決断行動せず、ずるずる日常をつないでいただけの日があった。あの頃、「結婚する時、まさか自分が離婚を考えることになろうとは」と自分に絶望していた。それから駿年後、この境地になるというのも、想像していなかった。

人生は自分で作りあげるものじゃないんだな。