病院に来るとシンミリ考えちゃう
病院にいる。今日は検診日。ここに来ると自分は患者なんだなぁと思う。
それが以前は悲しみだった。一生、病院とつきあっていくことは不完全な人間だとつきつけられているようで、劣等感が刺激された。
「どうですか、調子は」
「いいです」
きっぱり言い切る。
ジメジメとあそこが痛い、ここが苦しい、こんな発作がありましたと、伝えたときもあったけれど、最近はハッタリでも「元気です」。
相手は大病院のプロだ。素人がなにを言ったところで顔を見ればお見通し。手元にある血液検査の結果と入ってきた時からの表情をじっと見て、その上で「どうですか」と声をかけているのだ。
わたしは大丈夫なんでしょうか。長生きできますか。このまえの手術のシコリは再発していないでしょうか。
そんなこと。先生でも断言できない。
すべてひっくるめて、不調もひっくりめて私は大丈夫です!
「そうですね。いい方向という方向性は、確信していいと思いますよ」
先生がこっちを向いてそう言った。
いい方向に向かっているのなら、その途中で具合の悪いときがあろうが、そこにフォーカスすることない。
こだわらな〜い。今にも。先にも。
久しぶりに患者になって思い出した。
目標は、生きることだった。
どう、生きるか、なにをするか、どう充実させるか、役に立てるかなんて、そんな高度なこと、わたしは掲げない。楽しく笑ってなんてことも考えない。
ただ、生きるのみ。
ときどき笑えればもうけもの。
だれかの役に立てたらそれは奇跡。
夫がいて、息子がいて、母と姉がいて、数少ない心の繋がる友人がいる。
家があって、風呂があって、ものが食べられて、しんどかったら寝るところもあって。
これを読んでくださる皆様へのよいしょじゃないけれど、等身大の自分を晒け出して許される場まで、ある。
恵まれているよ。
神様に可愛がられている。
わかっているようでちゃんとわかっていなかった。
気がつくように、わかりやすく考えられるように、数々のカリキュラムがあったんだ。
出会い、別れ、苦しみ、絶望、怒り、恨み、ぐるっと回って残ったのはやっぱり平凡だけど愛。
自分をもっと愛そうと決心したときもあった。あれは、拗ねていた。
わたしを愛することは、神様におまかせしよう。もっともっと信じていこう。
ただ、生きよう。
神様の完璧なプログラムを信頼して。
続けよう、人生。
・・・なんちって。