お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

ぱっかーん!

「嫁氏は家や家具の不便さを個性として愛しております。」mashleyさんhttp://www.mashley1203.com/

 

昨日ここを読んだとき、「あぁ・・・」、瞬間、響き、そしてすべてのことから解放された気がした。

話はまったく関係ない数週間前に遡るが、散歩をしていたとき、いきなりぽんっと「ありのままの自分で勝負しろ」というフレーズが浮かんできた。

私が私に呼びかけているのか、なんなのかわからないが、どきりとした。このときもブロックのかけらがポロリと落ちたような、トンネルの終わりの先に光がちらっと見えたような、ガチガチに固まった自分を覆っていた硬いものにヒビが入ったような、なんともいえない不思議な心地よさがあった。

しかし、それきりだった。

頭の隅にそれはお守りのようにずっとあり、自信がなくなり考え込みそうになると、それをぎゅっと握りしめていたが、日本語の意味としてはわかるが、体感できない、そんな宙ぶらりんの状態のまま過ごしていた。ゆっくり腑に落ちるだろうと。

 

「不便さを個性として愛しております。」ここでこうきっぱり言い切っているこの方は、家を箱としてではなく、自分達をすっぽり包み込む大きな繭のように箱舟のように、愛している。

とりわけ椅子に対する愛情は突き抜けている。まるで我が子に対するように、手のかかる子、世話の焼ける子、中古のもの傷の付いたもの、扱いにくいもの、それらを全部ひっくるめ慈しんでいる。

はじめは「きれいなインテリアだなぁ、センスいいなぁ」で購読してたブログなのだが、毎日毎日読んでいるうちに、それらそれぞれが持っている不便性を「仕方ない子だなぁ」と言いながら、それでもいそいそと嬉しそうに手入れをいながら可愛がっている様子のほうが、私にとっての魅力になっていった。

「不便さ」が響いたのかもしれない。

私は自分が不便だ。欠陥商品のように思っている。走れない。食べるものは限られる。体が弱い。心が弱い。視力が悪い。容姿もよくない。どう客観的に観ても医者に通いながら生きている自分はアベレージには達していない母であり妻だと思う。それをどうにか克服したくて、納得のいく自分になろうと、もがいてもがいてもがいて、ここまできた。

納得のいく何者かになろうとしていた。

「不便さを個性として愛する」。

なんて優しいおおらかな愛情だろう。不便が個性。個性とは人とは違うなにかキラリと光るものでなくてはならない、そう思っていた。

不便こそが個性で愛するところだというのだ、こんな深い愛ってあるだろうか。

あれ・・・。この不便な身体と心こそ、私の個性なの?そういうこと?

「不便さこそが私」ということ?・・・か。

一気にしゅるしゅるしゅるっと紐がほどけていった。箱の蓋が開く。

ぱっかーん。

何者にもならなくていい。なにもしなくていい。そのままでいい。私も。母も、息子も、夫も、姉も、誰でも。

みんな凸凹がある。わたしは身体と心がとくに大きく凸凹してそれをなんとか平らにならそうとそこばかり気にしていた。

わたしの凸凹はここ。これが私。

ホヤホヤの概念なので、定着するにはまたしばらく時間がいる。

でも、なんだか軽い。

楽しくなってきた。