魂を放流した日
今日は何にも予定を立てず、本能の赴くまま過ごそう。
朝、そう決めた。あまりにも怠くて、何もやる気が起きなかったので、いっちょ、とことん無計画にしてみようと思ったのだ。
いつもは、パソコンやタブレットでYouTubeを見たり、新しいアプリを見つけていじったりしているうちに、時間が過ぎ、いかんいかんと、軌道修正する。
まず、主婦。そして娘、それから自分自身の栄養になる何かを。
そう、自律の枠を作っていた。抜かりなく1日をこなすことはできる。押さえるところは押さえたという安心感と満足感も最低ライン、確保できる。
そうすることで、どうにか自分を許している。
昨日、自分で書きながら、あ、と思った。
どっちにしても存在しちゃってるんだから、意義も意味も存在価値もない。
ジタバタ、自分の中でつまらない決め事を守ってみたところで、それが私の価値になるのか。そもそも自分に自分の価値を求めるなんてことはどこまでいっても、納得できる答えも手応えも手に入らなく、永遠に続く探求の旅じゃないか。
そんなこと忘れて、好き勝手にやってみよう。
せめて、今日、1日くらいは。息子もバイトで夕方まで完全一人。
あれやらくちゃ、これやってない、そんなの今日は取っ払おう。
夕飯は作り置きのミートソースでいいじゃないか。
自分で自分にカッコつけないで、何も考えず時間を潰すと私はどんなことをするんだろう。
意外なのはテレビはすぐ飽きた。
10時くらいまでは、録画したドラマや対談番組を観ていたが、音に疲れる。
スイッチを切るとシンとした。ホッとする。
無音の中、洗濯物を干す。シワを伸ばすのにバサッバサッと衣服を振る音。洗剤の匂い。自分が何をしているのか、確認しているような意識。
それから読みたいなと思いつつ、いつも時間切れれになっていた、作家の連載対談を読む。読み出したら面白くて、溜まっていたものを全部読む。
その話題の中にあった作者の作品をネットで立ち読みする。
行きたい展覧会、映画のリストを作る。
英単語のアプリで単語学習をする。同じ問題をしつこくしつこく何度もやる。
PDFファイルをノートアプリに入れるやり方がわかって面白くなり、どうでもいい文書をやたらとスキャンする。
背中に日光が窓ガラス越しにあたり、心地よい。
時間も、効率も、自分で自分をジャッジする視点も、遠いところにおいて、今に没頭することって、こんなに楽しかったっけ。
高校生くらいまではこんな瞬間に包まれた毎日だった。
あっちこっちをつまみ食いして遊んでいるうちに日が暮れる。
息子からラインが入った。これから帰る。
もうじき現実に戻る。
何にも生産性もなく、進歩もなく、意義のない1日だった。
なのに、この満足感。
私は、いつもちょっと無理して頑張っている。
ちょっと無理して、お母さん。
ちょっと無理して、主婦。
ちょっと頑張って、娘。
それもいい。あと数年もしたら、一つ、また一つと役目が減る。
今は私じゃないと埋められないマス目を、受け持とう。
あ、息子が帰ってきた。
さてと。お母さんに戻ろ。