二人の桃
時々、頭に信号のように知らせるような思いつきのような、衝動のような、サインのようなものがピンと浮かぶ時がある。
それは、この道を曲がろうとか、これを食べようとか、たいしたことのないことなので、これまでは「そうは言ってもね」と、浮かんだ「ピン」を頭の理屈で消して素通りしたことのほうが多かった。
本能の赴くままに。そう、できるだけそいう風に過ごすことにし始めた。嫌なのに、嬉しそうにして見せない。本当はやりたいのなら遠慮しない。休みたいのに働かない。そして、なんだかわからないけど、そんな気がする、そんな気分という衝動がきたら、流れに乗ってみる。
できるだけ自分と単純につながろう。これまで、立場や理屈でこねくり回してきた全てを、止める。
母に姉にこれまで断らなかったことを拒否することもある。反発や批判も当然吹き出す。風当たりが辛い日々もある。けれど、昔より、今の方が自分に納得がいく。
そして、なんとなく感じるのは、この「ピン」が結構、いいナビゲーターなのかもしれないということ。うまく言えないけれど、私の中にいる神様に一番近い私の味方が、「こっちこっち」「これ、いや」「これ、いい」と道案内してくれているのかもしれない。
こういうことをつぶやくと、「またなんか宗教じみたことを言う」と一蹴される。
自分の力でちゃんと生きなさい。そうやって現実から逃げるからダメなのよ。
そうじゃない。そうじゃなくて。
コンビニで桃を売っていた。いつもはコンビニで果物なんて、買わない。高いから。
それが、今朝、散歩の帰りに寄った店で桃を見たとき「おばあちゃんに持って行こう」と強く思った。母は私が一人で祖母に会いに行くのを嫌がるし、昨日、渋谷に出たので体は疲れている。しんどい。でも、「ピン」は言う。「おばあちゃんに桃。」
持って行った。母は案の定、嫌な顔をした。行きたいなら行けば。ちょっと辛い。
午前中の老人ホームは静かだった。祖母は夏バテなのか少し、痩せたようだ。桃を見せたらパッと顔が輝いた。個室の部屋で皮をむいて、皿に置く。それをじっと待って、置いたそばから食べる祖母。私も食べた。その桃は本当に甘かった。
「すごいわ。この桃。今年お初だわ」
「ね。びっくり。」
あっという間の勢いで100歳は食べる。こんなに喜ぶとは。
「最後の一切れ、半分こしましょう」
もう一度ナイフで二つに割った小さな一切れづつを二人で食べた。
「甘かったねぇ」
「ねぇ。」
あとは大した話もせず、すぐ帰ってきた。すぐ、昼ごはんになるところだった。
祖母は認知症だから、今頃、今日の桃の味も、私が来たことも、記憶から消えていることだろう。それでも。
理屈じゃわからないけど、私はこの桃の日をずっと覚えているような気がする。
大事な思い出を今日、作った気がする。