バカ母。
俺、なんのために生きているんだ
花に聞いてごらんよ お前はなんのために咲いているのか
俺は花じゃねぇ
じゃぁうちの庭に来るノラちゃんに聞いてごらんよ なんで生きてるのって
猫じゃねぇし
じゃあ太陽に聞いてごらんよ
なんで東から出てきて西に沈むのか
地球に聞いてみたら なんで太陽の周りを回るのか
宇宙じゃねぇし
わかるわかる 私もそうだった
自分は特別だって思ってた
俺を猫とか草と一緒にすんな 人だから 人間だから
おんなじなんだけどなぁ
わけわからねぇ すぐそうやってはぐらかす
じゃあさ
なんで君はそんなに可愛いのよ
・・・そうきたか
素直に生きよう
新しい掃除機を手に入れてから、ほぼ毎日掃除機をかけている。
台所をするときに床に葉っぱが散らかろうが、パン粉や小麦粉を溢そうが、きにすることなくガンガン調理を進める。
これまではあとで掃除するのが億劫なので、ちょっとこぼしてはその度に拾い、雑巾で拭くという、実に効率も頭も悪いやり方で台所仕事をしていた。
自ずと、料理もちまちまとした作業でするので、作っていても豪快感がなく、勢いもなかった。
今はむしろ、作業がすんでから一気に綺麗にするのが楽しみで、心置きなく汚しているから楽しい。はみ出していい料理ってこんなに気持ちよかったんだと、今更ながら思う。
自分の勝手な決まりごとに縛られて制限を設けて楽しくなくしていたのは、生き方もそうかもしれない。
衝突や非難を嫌がって、自分でここまでと枠を作り、その中で楽しんでいた。楽しんでいるつもりだったし、十分満足していた。
けれども、最近、あらゆる方向で開き直りつつある私は、やっちゃいけないことって、ある?と思い始めている。
欲しければ買えばいい。嫌なら断ればいい。やりたくないなら休めばいい。頭にきたら怒ればいい。そうやって自分を甘やかしていると不思議と義務感でなく、家事も家族のための仕事も、やりたくなってくる。
人ってうまくできているのだ。
体と心に素直に反応している方が自分を好きになる。
楽しくなる。
そして、自分に甘いと人にも甘くなる。
何かになろうとしない。
成果を残そうとしない。
誰かが言ってた通り。道はあとからついてくる。
そして、評価はもう、いらない。
それは急にやってきた
「お姉さんが一人っ子じゃぁかわいそうと思ってあなたを産んだのよ。それなのにそんなに身体が弱くて。あなたみたいの産んで私の人生なんだったんだろうって思うのよ」
だから私が死んでもちゃんとあなたが長生きしてくれないとお姉さんがかわいそうでしょ。
ひ、ひどい。私の存在、全否定・・・。といじけて虚ろな目になっていたのがつい、半年ほど前。
今の私はこう翻訳をする。
可愛い末娘よ、病弱でいつもいつもハラハラさせられて、私が死んじゃってからあなたは大丈夫なのかしら。心配だわ。長生きしてね。お姉さんと仲良くしてね。
では、あなたみたいの産んじゃっての下りはどう訳すのでしょう。
あなたを産む前思っていたのと随分違う子育てになって、今振り返ると私の人生ってなんだったのかしらって思うのよ・・という心のうちを打ち明けてしまうほど、私に心を許している。建前主義で意地っ張り見栄っ張りのあの母が。ポロっと人生の弱音を。
随分の意訳だと思いますか?でもこれが真実だと私は確信します。
最近、頭の中のOSを初期化して、再インストールしたのです。
過去のデータで役に立たないものは全部完全削除しました。
それと同時に母の言葉の翻訳ソフトも最新のものに入れ替えました。
愛に満ちた翻訳をしてくれるソフトです。
考えてみれば、人の頭の中のソフトを私がいじって、私のことをこう理解しろ、こう評価しろというのは無理なことです。できるわけがない。
それより自分の頭の方が自分の好きなように都合の良いようにカスタマイズできることにやっと気が付きました。
実は、私は愛に満ちた中で暮らしている幸せ者だった。
負け惜しみとか、苦肉の策だと思う人もいるかもしれないなぁ。
私自身、急にこんな満ちたりた心境になってびっくりしている。
なんのきっかけもなかった。急にそれはやってきた。
特別大好きでもない。でも特別気になることもない。
言いたいことを言って、それでボロクソに言われても、大丈夫なのかどうか、まだまだビビっている末娘。それでも。
私は私をちゃんと受け止めていけそう。