緑のセーター
今朝、段ボールのゴミ出しで顔を合わせた直後、母がやってきた。
「あなたが白いシャツ着ているうちにと思って」
私は同じく今日、収集の新聞をまとめているところだった。来たなぁ。
昨日、彼女は横浜の一泊旅行から7時ごろ帰ってきた。
ニューヨークに続いて、今度はお友達と横浜のホテルでお泊まり会だったのだ。
スーパーが億劫で今度は横浜かいっ。
うそうそ。機嫌よく遊びに行ってくれるのは見ていてこっちも嬉しい。
しかし、面白くなかったようで、帰ってくるなり、うちに来て、散々、一緒に行った仲間の悪口を言う。
ご飯の食べ方が汚い。すぐそこに中華街があるのに、夕飯はコンビニでおにぎりや御菜を買って部屋で食べたとか、外人墓地も異人館も行かないで元町でお買い物だけだったとか。
ふふふ。
母は姉との旅行は姉のいいなりになってついて歩く。それは姉の興味持つもの、行きたがるところが全て美術館、ジャズ、モーニングの素敵なカフェと、アカデミックなところばかりなので「興味ない」とは言えないから。私相手だと自分の好きなタイミングで好きなところで好きなものを食べ、好きなところに連れ回し、自分が疲れたら、はい、今日はここまでとイニシアチブをしっかり握るのだが、姉にはなぜか一歩引く。
それに続いての今回は、今度は内弁慶の彼女の特性が楽しみを半減させたようだった。
「そんなの嫌だ〜。外人墓地、行こうよ〜」
と、できない。私と美術館の帰りにケーキを食べたいと行って、道の真ん中で動かなくなったくせに、外だと物分かりのいい人を演じてきてしまう。
「それでさ、買いたくないのに、買え買えって言われて、仕方ないから緑のセーター買ったのよ。胸のところにNってあるんだけど。・・・まぁ物は悪くないんだけどね」
これを聞いたとき、いやぁな予感がした。これは、来る。近いうちに私のところに、これを着ろと持ってくる。
これまでのパターンでいくと、そうなのだ。自分が買ったものの気に入らないもの、数回着たけれど、やっぱりいらなくなったが、高かったから捨てるのも気がひけるもの、全て私にあげることで解決する。
ひどいときは、「ダメならあなたが着ればいいと思って買った」と言う。
それらを引き受けるのが自分の役目としてきた私のところには、やたら上等で自分には似合わなく、お洒落着なので着心地も良くない服がたくさんある。
それがあるがゆえに、私は自分で服を買えない。タンスに上等なものがあるのにユニクロで新品を買う矛盾に、なぜか私が悶々としてしまうのだ。
「これなんだけどねぇ」
ほうら。例の緑のセーター。
「いらないよ」
「そう言わないで着てみてよ。物はいいのよ。アクリルにカシミアが混ざっていて、バーゲンで6500円だったけれど定価は15000円してたんだから」
6500円あれば、ユニクロの首回りに模様のある、あの臙脂色のセータを買ってお釣りがくる。
一応、着てみせたが、薄いので暖かくない。今脱いだセータは、父が昔着ていたもので、やはり母が捨てられないからと持って着たものなのだが、カシミア100パーセントで何年経ってもあったかい。古いから惜しげなくトイレ掃除もできるし暖かいので、実用的だが、これはダメだ。
「似合ってるわよ。いいわよ、似合うわよ」
「いらないって。全くなんでこんなもの買って着ちゃったのよ。だいたいNって、誰よ。私、Nじゃないもーん」
「あげるって、何かの中に着てもいいじゃない。似合ってるって」
いつもはここで負けて、引き受けた。着て、着れないこともないと自分をなだめて、とりあえず受け取ってしまう。
しかぁし、私は今日は負けなかった。
「いりまっせん。誰か、他を探してくれぇ。」
母はムッとした。そしてシュンとした。
「チェ、そっか、ダメか」
もらってやればよかったかな。一瞬揺れる。
いいや。いらない。仕方ないと諦めてくれ。
何かを撃退した気分。