身のほどを知る
ヤクルトを届けにいったら呼び止められた。
「あ、貴方に相談しようと思ってた、ちょっと座って。ハワイの事なんだけど」
ドクターストップを告げた日こそ涙したものの、母は翌日からすっかり立ち直っている。
あれからちょいちょい、この話題を持ちかけられる。
ホテルの部屋がもう取り替えられそうも無いから一人4万は高くなる。そのオーバーした分を母が姉と従姉の分を負担しようと考えている。姉はそれを断り「欲の無いいい子だ」ということ。
べつに私にどうしろと責めているつもりはさらさらない。
ただ、ねぇあの続きだけどさぁという程度のつもりで私に話す。
「これ、ちょっと見て」
ガイド本にたくさんのインデックスがついていた。
「お姉さん、あなたを連れて行こうとこんなにたくさん調べていたのよ。ちょっと・・・まあかなり、がっかりしてたわよ」
うえええ。許してくれ。
自分が加害者だと言われるとたまらない。
大好きな姉を悲しませた奴はだれ!私!うええええ!
叫びだしたくなるが「ごめんねえ」と力なく苦笑いするしかないではないか。
姉の失望と母の涙と混乱とに今からでも頑張ればいけるのではないだろうか、来月先生にもう一度相談してみようかと一瞬魔が差す。が、いかんいかん、と首をブンブン振りなおす。
目の前で自分が巻き起こしたトラブルの波紋を見ると「頑張ればなんとかなるかも」と浅はかにも思う。
私が我慢すればみんな楽しくなる。
えらい思い違いだ。
それほど私に力は無いし、私がいなかろうがちゃんと存分に楽しむ。
たとえ相手が家族であったとしても、私はその人のにとっては登場人物にすぎないのだ。
母には母の、姉には姉のシナリオがある。
私には私のシナリオがある。
それぞれのページでそれぞれが主役になって話は展開されているのだ。
母親に違和感や憤慨を感じたとき、責められたり未熟者といわれるよりはと、ヘラヘラ笑ってきたが、実のところ自分の感じる気まずさと悲しみと悔しさから自分が逃れようとしていただけなのかもしれない。
ちっともうまく向き合えるようになってなんかいない。
たいしたことのない母の呟きに勝手にいじけ、用心深く接するのがうまくなっただけなのだ。
ハワイは正直行きたいと思っていた。
正確に言うと「行ける自分になっていたかった」。
しかし土壇場で怖くなり逃げた。
その自分が、悲しく、やるせない。
このままやっていこう。このまんまでやっていく。
劇的にぱっと問題解決、トラウマ解決なんていくわけがない。そこに気がつけただけでもよかった。
おまえさん、おまえさんは自分で思っているほど有能ではないのだよ。
やれると鼓舞して頑張るのはおよし。
勘違いです。
分を知りましょう。
人と人
夜中三時半、窓からの月の明かりがあまりにきれいだったので枕元のiPadで写真を撮った。
『パシャッ』
シャッター音は思いがけず寝室に響いた。
夫が「どした?」と目を覚ました。
「なんでもない」
いつもなら地震がきたって起きないのにわざわざ立ち上がりこちらの様子を見に来た。
「なんでもないよ、ただ写真とってただけ、月の」
つき?怪訝そうに窓を見上げ、ああ・・と納得して戻っていった。
「大丈夫なの?」
「大丈夫だよただ撮ってただけ」
結婚間もない頃、洗濯を干しながら鼻歌を唄っていた。
やっぱり夫がとんできて「どうしたの?」。
「どうしたのってなんで?」
「いや、急に唄いだしたから」
「いや、ただの鼻歌です。」
「あ、そうなんだ、鼻歌唄う人うちにはいなかったからどうしたのかと思った」
クリスマスはケーキつくってプレゼント交換してと盛り上がっていた私と「え?なにかするの?」とびっくりした夫。
ケーキくらいは食べようよというと、じゃあ僕が買ってくると、会社の帰りにデパートでモンブランといちごのロールケーキを二本、得意になって抱えて帰って来た。
「迷ったから両方買った」
私のなんてことないことと、彼のなんてことないこと。
そんなつもりじゃないのにびっくりさせたり、勝手に悲しくなったり、思いがけずに喜んだり。
丸ごと全部理解はしていない。
長い生活で慣れて勘所がうまいこと他の人よりは働いて気が楽な人というくらいのところなんだろうな。
彼にしてみたって妻が夜中に突然、窓を見上げて月の写真を撮りだすような癖があるとは想定していなかった。
そしてクリスマスのロールケーキがこんなに強烈なエピソードとして残っているとは思ってもいないだろう。
傷つけるつもりでなく
ただその人のなかではなんてことない話をしているのに
聞いた方の間隔ではぐさっときてしまった。
人と人の間のそんな事故も多かったんだろうな。
だれとでも。
余談ですが。
この記事を書いているところに夫がやってきて画面をなんとなく覗いてきたので閉じようかと一瞬思ったが「僕の事?」と興味ありそうだったので「そうだよ」と読んであげた。
お話のなかの登場人物になっているようで嬉しいのか「いいねえ」と小さく手をバチパチさせて去っていく。
うれしいのか。
どうでもいいのか。
嬉しいように見える。
頭の中までは 見えない。
ときには勇気もいるけれど
さっき気がついた事。
幸せっていうのは気分なんだ。
気分がよければどんな状況でもその人は幸せの中にいる。
だっていい気分なんだから。
どんなに恵まれて羨ましがられてもその人が晴れ晴れとしていなければ。
その人は気の毒だ。
ようするにもっとこうなったらとか
もっとここがよくなったらじゃない。
極端に言えば、どこでも気分さえよければ満ち足りられる。
入院していたとき、七階の病室のベッドから降りる事も許されない時期が長く続いた。少しよくなり一階の本屋まで看護婦さんが仕事の合間に一緒に行ってくれることになった。
「今日、一階の本屋、行ってみます?」
あのとき、本当に嬉しくて嬉しくて約束した午後に彼女が迎えにくるのが待ち遠しくてたまらなかった。
本屋で買った本が翌朝からの楽しみになる。
目が覚めると、ああ嬉しい今日もあの続きを読もうと弾んだ。
あの小さな二畳ほどの空間で必要最低限のものだけのなかの生活でも心は踊る事ができたのだった。
っていうことは。
やっぱり手段選ばず、とにかく「ご機嫌」になればいいのだ。
入院中と違うのは人との関わりの中で生きている事。
複雑な糸と糸がからまったりピンと張りつめたりするなかでも、軽やかに自分の機嫌をとろう。
あっはっはと声を上げて笑うほどの高揚感でなくていい。
充実感でなくてもいい。
もっとなまぬるい、ゆるい穏やかな心地よさ。
好きなお菓子を食べてそうなるなら食べちゃえ。
ゴロゴロ横になっていて身体がらくになるならそうしちゃえ。
派手なアクションじゃなくていい。映画や絵画を観に行かなくたって、ウォーキングをしなくたって、ヨガや呼吸法にとりくまなくたって。
寝っ転がっていたら窓から秋の初めの風が顔を撫でていった。
このときの感じ。
機嫌良くしていると「わたしがこんなにしんどいのに、ヘラヘラとあなたはなにもわかっていない」と責められ、そこでシュンッとしたものだったが、そこからが勝負。
そこで反省なんていらない。
それでもご機嫌でいていいのさ。
そうしていれば、誰の事も嫌にはならないし、生きる事がいつでも楽しいまんま。
自分のご機嫌を貫くって、ときには勇気もいる。