お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

私の夏休みの宿題

塗り絵をしていた。

入院中、絶対安静でベッドと同じフロアのトイレ以外、歩いてはいけなかったとき、看護婦さんに付き添われて行った売店で暇つぶしにと「大人の塗り絵」と色鉛筆を買った。

本を読んでも文章の意味が入ってこないくらい消耗していた頭に、ただ、色を塗るだけの作業は無心になれて、その日の成果も形になって残って、都合がよかった。

そのときの楽しさが心に残っていて、退院してからも買ってやってみたが、そのときには、家事と並行して塗りをするだけの余裕がなく、何でこれを楽しいと思ったのだろうとがっかりして放り投げた。

昨日、やりたいことが見つからないと思っていた時に、思いついたのはこれじゃない。

そっちは、これ。名づけて、書くアルバム。

自分のこれまでの中の記憶で、忘れず、くっきり覚えているエピソードがいくつかある。それは小学生の頃のものが一番多いのだが、私にとってそれはまだ悩みもなく、自信満々でまっすぐだった宝箱の中のような毎日だった。あちこちぶつかるが、結局、お父さん、お母さん、お姉さんに囲まれ、泣いて笑ってキラキラと光を放っていたように思う。

それらのかけらを、覚えているうちに、紙に転写したい。そうずっと思っていた。

母への葛藤が強かった頃は、どうしても素直な気持ちで書くことができず、思い出をたどることが却って自分を苦しめた。何度かやりかけたが、ダメだった。

それを思い出したのだ。今なら、できる気がする。そして、これを完成させたら、もっと素直になれるんじゃないか。

早速、昨日、短い手紙くらいのものを4つ書いた。読み物としての質を一切無視して、思い出すまま、自分よがりの言い分と記憶で、一気に書いた。

二時間ほど、深い海の中に潜ったようだった。あの頃の自分に会いに行ってきたような不思議な時間だった。

こんなもの書いて、何の意味があるんだろう。

そんな考えが浮かんだ。急に高揚していた気持ちがしゅんっとすぼんで、一日目にして、やめようかな・・と思い、少し悲しかった。

今朝、起きた時、この「書くアルバム」を思うと少しうんざりした。書かないとダメかな。せっかく昨日、決めたんだから、もう少し、やってみようか。

早くも、義務化している。趣味のはずなのに。やっぱり、これは違ったか。まだ早かったか。

本当は目が覚めた時、あ、あれやろうって思ってウキウキしているはずだったのに、二階に行く気がしない。いつもより丁寧に掃除をしてみたりする。

そこで見つけたのだ。塗り絵を。

あぁ、これもやりかけだなぁ。もったいない買い物だったなぁ。目につくところに置いておけば、やるだろうかと一階リビングの本棚に並べておいたが、ほったらかしだ。

あれやる気がしないから、今日はこれで暇潰すか。

期待していなかった。暑いし、外に出たくないし、そうかと言って家事を張り切る気もしないし。夕方までの暇つぶしになればいいや。

楽しかった。ハマった。

どうせ捨てちゃおうかと思っていたんだから、配色とか考えないで直感的にやっちゃおう。誰に見せるわけでもないんだし。これは作品じゃない。暇つぶし。好きな色をデタラメに塗ろう。とにかく、塗る。それでよし。

このマイルールが良かった。面白くって面白くって。題材もメルヘンなイラストで乙女チックなものなので、現実離れした好きな色を思いつくまま塗った。

ピンクの象、水色のアヒル。紫の屋根。

塗りながら思いがけず、忘れていた記憶がまた頭に戻ってきた。

小学校の遠足のしおりのイラストに色を塗る時間があった。あのとき山を青に塗って、みんなに笑われた。夏休み、家で工作をしていたら、お母さんに「ちょっとよこしなさい」って取り上げられて、自分で思っていたのと全く違うものが完成されて戻ってきたこと。

「だって、下手なんだもん」

くっそう。くっそう。そうだったそうだった。私の塗る色や作る作品、作文、いっつもおかしいって言われた。

もう、この塗り絵の世界は無法地帯だもん。好きなように思う存分、めちゃくちゃな私の世界を出しちゃうんだもんね。自由だ。自由だ。

 

やっぱり、書こう。あの頃のこと。あの頃、もやっとしたこと。きゅんとしたこと。

塗り絵して。思い出して、書いて。

どっちも未完成のまま、つないでいこう。

 

こんなことして何の意味があるんだろう。

でも、なんかやりたい衝動が強い。

長続きするか、一瞬の熱かわからない。

でもいいや。

ほら。夏休みの宿題は作文と絵ってあったもの。

 

 

 

うつうつの嵐、おさったかも

とりあえずの、やりたいことが見つかった。

続くかわからないけど、この夏の間くらいは熱中できそうなことが浮かんだ。

ヨカッタァ。

不安だった。ずっと規制されて、他人基準で生きてきていたから、いざ、それを止めようと決心し、自分の好きなように生活をし始めても、はて、私は何をしたいのかしらと途方に暮れてぼけっとするだけだった。

刺繍とか絵を描くとか、そういうのに憧れるけど、私の手には呪いがかかっているかのように不器用。テレビもつまんない。読書も時々なら楽しいけどっていう感じ。

これやってれば時間があっという間って言うもの、ないのか。私には。

やりたいことがない。これはショックだった。

多分、この年齢からだけど、手探りであれこれやって探していくことになるんだろう。

それもいいか。趣味、趣味を探すこと。

理想は、ラジオをつけながら、飽きないで家の中でやれること。

夢中になりすぎて、あ、もうこんな時間、買い物行かないとっていうの、やりたいなぁ。

とにかくよかった。なんか見つかって。

長続きを義務としないと自分に保険をかけておこう。

とりあえず、でいい。しばらく、朝が楽しみになる。予定。

私へ

キタキタキタキタキタ。妄想の波。正体のない私の思考の中の妄想が私を押し寄せる。

「私はこの世の中であまり役に立ってない」

「私よりどの人もどの主婦もハツラツと生産的に生きている」

「私は無能。何の取り柄もない。ただ、生きてるだけだ」

体調が悪くなって思うように過ごせなくなってくると襲う波。

わかってる。これは嘘。この世の中に何一つ無駄なものはない。

頭と心が繋がれないとき、私は不安になる。自分で自分の価値を確かめたくて働く。

それは芝刈りだったり、意味もない床拭きだったり、豚肉を茹でる作り置きだったり。

そんな仕事の小さな成果を見て、「よし」と自分を認める。

そんなこと必要ないのだ。

息子にそんなこと、求めない。ただ、いて、呼吸して、存在していてくれれば私は嬉しい。できれば、嬉しそうにしていたり熱中していたりしていてくれれば私も弾むけれど悩んでいても怒っていても、それでもいい。

自分に求めているのは何だろう。

手応え。ここにいていい。いれば、いい。いるから、それだけでいい。という確信。

私は疲れると時々、自分で自分を疑う。

いいんだよ。疲れた時は疲れたままで。

なんなら明日も疲れたまんまの一日でもいいんだよ。

あの日、死なないで、持ちこたえて、その後も寝たきりにならなかったのは奇跡。

買い物してご飯作って、洗濯できて、行ってらっしゃいって手を振って。

それで満足している自分を責めてるでしょう。いいじゃない。いいんだよ。

私の幸せは私が決めていい。私の生き方も私が決めよう。

だから私が私を疑うのは、おかしい。

忘れちゃいけないのは、一番の味方は私だってこと。

人に、ものに、何かにすがるな。自分を頼れ!

 

あ〜、書いて、すっきり。

プチ、リセット。