お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

つい、熱くなる

息子が暗い顔をして帰ってきた。

大学の帰り道、知り合い程度の友人に声をかけられ、転科してもその希望して行った先の教授陣は課題も評価も厳しいらしいよ、就職するのに入学してから学科を移動した経歴は不利になるってよとずっと、バスの後ろの座席から言われて帰ってきたそうだ。

「それで?」

「動揺するじゃん。」

「それでやめようかなって思うならやめればいいじゃない」

「いや、そういうことじゃない」

「じゃ、それは雑音でしょ。不快な音を聞きながら苦痛だったのは気の毒だけど、心の中に刻み込むことはないよ」

今ひとつ腑に落ちないようなのでまた、言った。

「もし、彼が本当に君のためを思って言ってるんだとしても、ここに至るまでの葛藤や君という人間が何に面白みを感じ、何を耐えられなくて、何に喜びを見つけるかなんて全く知らないんでしょ。この一年、数回会話を交わしただけで、君の何を知っているっていうの。彼はその数回でも親近感を感じてくれて、知っている情報は伝えないとって思ったから言っただけだよ。悪くもないし、自然だし、いい奴じゃない。拒絶することもないし、振り回されることもない。散々迷って、そんなことも百も承知で決めたんなら、たとえ、本当に転科試験に受かってその厳しい授業に面食らったとしても、あれだけ苦しんで決めたんなら、別の納得がいくと思うよ」

「だよな」

「あ、あと、今お母さんが言ったことは、息子の心にズカズカ入り込んで余計なこと言いやがってって、イラっとしたから、感情的になって言ってるところもあるから。

この発言にも振り回されることないよ。やめたくなったら、希望を取り下げたって全然構わないし、格好悪くもないからね」

母、つい、熱く語ってしまった。

トイレ掃除から思うこと

トイレの掃除をしていた。流した後に水の出てくる銀色のノズルの根元がうまく洗えない。ノズル自体にも青銅のような水垢がついている。これもいつもこするのだが、角度が悪くてスポンジが安定して力を入れられず、いつも中途半端で諦める。

今日も壁を磨き、便器を磨き上げ、床も拭いて、完璧っつと言いたいところだが、ここがネックになって「ほぼ、合格」で終わりにしようとした。

ここがねぇ。もうちょっと洗えるといいんだけど。そう思ってガタガタこすっていたら、くるっとノズルが動いた。

え。動くの。これ。

なんとこれは持ち上げれば外れるのだった。ただ乗っけてあるだけの蛇口だった。

23年、この家に住んでいるが、全く知らなかった。よく、知らないままここまできたものだ。

きっとこんなことは私の周辺には山のように転がっているのだろう。

よく歩くあの小道にだって、ときどきびっくりするくらい綺麗な夕焼けの見えるスポットがあったり。

あのスーパーだって熟知している気でいてもカウンターサービスや魚の三枚おろしの他にもっと便利なサービスが用意されているのかもしれない。

そして夫も。家で見る姿と、会社の顔、義理の父と兄だけとの会話の時の彼、友達の中での姿。想像はできるが、それは真実ではないし、全く別のものだろう。

父が晩年、入退院を繰り返した頃、会社の人たちが病室にやってきて、父に対する彼らの中でのいつもの会話を目の前で見て、やっぱりびっくりした。

自分の親だけれどそれは知らないどこかの会社のおじさんだった。

息子も。姉も。母も。

近い人たちほど、知らない。そこを深く考えると家族運営が不自然になりそうだから突き詰めないが、彼らが私に見せるのはその瞬間のわずかな顔なんだ。

見ている姿、様子だって一部なのだから、そこで接したときの会話や態度でその人を「こういう人」「こう思っている」とこっちで勝手判断すること自体、無理なのだ。

その小さな瞬間を何度も重ね、長く共有しているからわかった気でいるというのもの危険だし、思い上がりだ。

そんな当たり前のこと。今頃腑に落ちる。

だから、私のことを理解してくれる人を求めることも、そもそもおかしい。

なんとなく。でいいのだ。そんなものなくたっていい。

だって、私自身も子供の頃からいまの自分が同じ人間と思えないときもあるし、日々、マイナーチェンジをして進化している。

私自身、自分を「こういう人」と思い込みの枠にはめているかもしれない。

 

私という人間は、今の状態。

守りに入らず、どんどん展開し前進するのだ。

感謝溢れる

やばいやばいやばい。

広辞苑でやばいの意味に「のめり込みそうになる」というのが追加されたそうだが、私のここでのやばいは、もとからある方の「危険を懸念する」方。

何がやばいのか。

そもそも・・なんのために・・が散らつき始めている。

気がつくと私のように自分の心の声を日記のように書き残しているだけのものにも読者の方が100人を超えていた。普段、アクセス解析のようなところは自意識にダイレクトに響くので見ないようにしている。それでもときどき、はてなさんから通知をいただいて、あぁだれか読者になってくださったんだなぁと、一人地味に感動していた。

それを先週、パンドラの箱を開けてしまった。

眠いけど、今日、心に残ってることはこれかな・・と、書いたときも、悲しみで平常心を失っているときも、支えてくださった方がこんなにいらっしゃる。

読書になったと言うことは、半ば強制的に私の駄文がさも、新着記事ですって即、通知がいってしまう。そのことを思うと。

ほうら、予期していた通り、「こんな内容もないこと書いて申し訳ない」と思い始めるようになった。

ただ、書いて、心の頭の整理をして、ときにどなたかが、「頑張れ」「それでいいよ」

「うちもあったよ」と声をかけてくれる、それが、母からも娘からも妻からも抜け出た私自身の生きてる証のようで私を加速的に自立させてくれた。

自分のことで頭がいっぱいで考えているようで深くは読み手のことまで意識しておらず、広い宇宙の星たちに投げかけているような、「だからどうした」という、そんな手前勝手のことばかり書いてきた。

こんな内容でいいのか。そう思うとあれほど楽しかったメモ的日記的、手紙的ブログもゼミに提出するレポートのようになり、勝手に潰れそうになる。

で、そもそも・・になるのだ。

そもそも私ってなんでブログ書いてるんだろう。

なんのために。これを思い始めるといけない。私の場合、体調を崩し始めると心もおかしくなるのか、この傾向がある。

答えなんかあるわけがない。ただ、好きだから。面白いから。やめられないから。

そこを無理やり位置づけしようとするから、悶々とする。

そして、これが最終的には「そもそも私はなんのために生きて死んでいくのだろう」

と、壮大な手に負えない話につなげてしまう愚かさ。

生きるのに意味なんかない。ただ、命があるから、肉体に宿っているから。そういう状態にあるから生きるのだ。意味も価値も上も下もない。優劣なんか、当然、ない。

ブログもそうだと思いたい。

社会性もなく、立派でもない地味な主婦が、主婦の視点でもなく、大人の女性としてでもなく、迷子になった子供のような不安や疑問やひらめきや喜びをただ、書いているだけ。

そんなこのブログを読んで

「こんな奴でも、生きてる生きてる、よかった。立派じゃない人もいるんじゃない」

とホッとする。

そういう勇気づけになることも、ひょっとしたらあるかもしれない。

意味づけはしない。

私という人間にも。このブログにも。

そう、整理整頓したら、また、このブログが私自身の憩いの場になった。

121人の皆様が毎日毎日、このブログにクギ付けで必ず読むぞっと思っているはずもない。やっぱり私は宇宙の星の皆さんに向かって書いていこう。

遠く近くの星の皆様。

存在してくださって本当にありがとう。

いてくださる。この文をどこかだれかが拾ってくださる。

それが私を励まします。

ありがとうございます。