お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

肝っ玉母ちゃん

私は、昔のキラキラしていた自分に、いつになったら戻れるのだろう。

入院、して、死にそうになって、今度は鬱になって、底辺をさまよってからの今。

退院してから2年、3年の頃までは、本当に死なないで生きていることだけで精一杯で、生活の質とか、楽しむとか、そんなこと、もう、到底できないと思っていた。

次第に、引きこもらずリビングで過ごす時間が増え、ドトールに行って本を読むことを覚え、テレビで笑っている自分に気がついたとき、本当に安心した。

もとに戻っていくのかもしれない。今はその途中で、また、屈託なく、なんでも食べ、どこにでも行き、誰とでもおしゃべりをしてよく笑う私になれるのかもしれない。

ダイエットでも停滞期というものがあるように、私は、ある程度のところまできたら戻りが止まった。

細胞が全部止まって、また動き出したのだとしたら、修復するのにも限界があるのかもしれない。

そろそろ、ちゃんと、今の自分を認めてあげないと。

「昔の私が本当の私で、今の私は、こんなんじゃない」

どっかそんな想いがいつもあるけれど。人は、変化して変化して変化して、毎日毎日、変化し続けるものなのかもしれない。

生きてるもの、みんな、そうなのかもしれない。

戻らないのだ。もう。

よく考えてみたら、息子は元気発剌だったと私が自分のことを思い返す、その私を知らない。今の弱虫で、虚弱で、変に空回りして、いつも家の中でぼんやりしている私が、彼の母。そして、彼は私がぼんやり家にいる姿を好む。

このブログの中で会話をさせて頂く方達も、そう。今の私を私と思って接してくださる。

今の私を受け入れていないのは、私と母と姉だけ。

もう、いいじゃないのかなぁ。ここまでで。これで。このままで。

いい加減、私が私をきっちり愛してあげないと、今の私が心細くなるんじゃないかな。

息子がもし、何か失敗して、世間を敵に回しても、私は理屈抜きで彼を守る。夫が何かやらかしても、見捨てることは、想像できない。法を犯しても彼らを守る気がする。

「何があってもあなたのことは私が一番の味方でついてるよ」って、自分に言えない。

まだ何もやらかしてないのに、立派な誰かたちと、過去の自分と比べては、今の自分を向上させることに躍起になっている。

もう、いいか・・・。疲れてきたな。このへんで、終わろうかな。

 

太い根っこになって。太い幹になって。地に足をつけて。

私自身の肝っ玉母ちゃんに私はなりたい。

力を抜いた生活

わたしの手抜き、更なる抜きを発見。

玉ねぎをみじん切りにして合挽き肉と炒めたものをわたしはよく、冷蔵庫にスットクします。オムレツの素にしたり、レンジでチンしたジャガイモと混ぜてコロッケにしたり、ミートソースにしたり、そぼろ肉じゃがにしたり。これが冷蔵庫にあると、安心するのです。

昨日、あまりに体調が悪く、とにかく、楽して何か作れないかと冷凍庫を開けたら、生協の「合挽き肉のバラ凍結」の袋を発見。

・・・解凍するのすら、めんどくさい。

ダメでもともと、玉ねぎのみじん切りにこの合挽き肉をバラバラと乗せ、タイムを振りかけて、端開けラップをしてレンジのあたためキーで熱を加えてみました。

お。いける。卵に入れたり何かと混ぜ込む分にはこれで十分。

トマトを切って一緒に炒めて、小麦粉とウスターソースケチャップと水ちょっととワインでハヤシライスとか、次回、不調の時、使えるかもしれない。

結局、昨日はこのズルしたひき肉炒めとのオムレツと、ジャガイモ、大根、玉ねぎを細かく刻んだものをお鍋に一緒くたに入れ、コンソメで煮込んだものに、アサリの缶詰と残ってた生クリームを入れて、なんちゃってクラムチャウダーにしました。

今朝、今度はこのなんちゃってクラムチャウダーを少し、お玉で取り分けて、たまごと混ぜてチーズを乗せてトースターで焼いたら、なんちゃってスフレもどきができました。

一生懸命、大さじ何杯って勢い混むと失敗が多いわたしの食卓は、少し、力が抜けた具合の方がスムーズに回るのかもしれません。

もっともっと肩の力を抜いて生きたい。リラックス、リラックス。

軽やかに自然な流れの中に溶け込んで暮らしをゆったり楽しむ自分。

憧れます。

息子のごめん

昨日、息子が3時ごろ、ラインを送ってきた。

「ごめん。すまん。8時に帰る」

よかった。あの時、ムッとした勢いにつられて声を荒げないで。

いいたいことをぐっとこらえ、その場を去る。それが反抗期の頃に身につけた、息子に対するわたしのやり方なのだけれど、これは自然鎮火を待つというよりも、とりあえず現場から逃げる、という意味合いの方が大きい。

わたしだって言い分はある。けれど、悲しいことに、それを瞬時に的確に表現するだけの反射神経がない。何かいい始めても、自分で「あれ、こんなこといいたいわけじゃなかったのに」というようなことになってしまう。

息子の方は弁がたつし、鋭い。わたしの言葉尻を捉え、曖昧さをすかさず切り込んでくる。

言っても、消化不良。言わなくても消化不良。ならば、黙っていよう。無駄にお互い傷つけあいたくない。

くっそぅと思いながら、一人、ベッドでやりきれず泣いたこともあった。

最近、息子が時間差でごめんと言うのは、「終わりにしようぜ」ということなのか、それとも、「元気出せ」ということなのか。

後者の気がする。自分でふっかけておきながら、自分で慰めに来る。この地味な矛盾と成長。そのうちに、喧嘩相手にもされなくなるんだろうな。