知恵熱
熱を出しました。
このところ頭が重く痛かったり、昼間から眠かったりしていたのですが、春に切り替わる時のいつものあれ、だとばっかり思っていました。
朝食をとってそのまま床にゴロンとして目が覚めると11時。起き上がるのも億劫で、どうしてもその気になれない。ここで発熱確認。7度6分。
重症でもなく気だるいだけ。最近あれこれ自分の中で発見して考え方の転換をしているところだからおそらく知恵熱です。
最近の流れからいくと安心して休んでいいんだっけ。こういうとき。
今日はお母さんじゃなくて、主婦じゃなくて、知恵熱の私として過ごしてみよう。
家族に隠してテンション上げていつも通り家事をやることが美しい正しいと勝手に決めてたけど、違うんだっけ。私はそれほど立派な人じゃない。もっと甘ったれ。
大丈夫、一歩も外に出ないでゴロゴロしても、何にも起きない。
天気はよく、暖房を消して、ホットカーペットだけをつけて窓を開けてまた寝ます。
背中がポカポカして、庭の沈丁花の香りが風に乗って入ってくる。
テレビを消して目を瞑ると、ヘリコプターの音がペリペりペリペリと長閑に聞こえる。庭に来ている鳥。スズメ。ヒヨドリ。
足元だけにあたってる陽が気持ちい。
あぁ。このまま寝ていいなんて。こんな幸せ。全部私のものだ。
なにを言いたいんだか
あれから、自分が自分を承認していればいいと、納得できてから、毎朝起きると「あぁ。そうか。私はもう自由なんだ」と安心する。
それは、息子を産んだ日の翌朝、「あぁ、もう産んだんだ」と感じた安堵感とも似ている。
自分が自分を承認すると、自分にまつわるあらゆるものも、改良しなくていいということになって楽だ。
仕事ばっかりの旦那も、そのままでいい。
勉強大好きじゃないけど、好きなものには夢中になる息子もそれが完全。
とりあえず仲良くやってる家庭。不満をぶつけて気まずくなったり会話が減ったりしながら、一緒に暮している人たち。
この家族というのは鎖でも責任でもない。
ただ、あるだけ。
よく、無条件の愛とかいう。
私はそういうものを持てる人になりたい、そういう人存在でありたいともがいたけれど、
どんな状態でも「そうなのね」と思うことが、それに近いのかもしれない。
へんてこな自分をなんとか世間に追いつかせようとしていた時。
これじゃいけないと自分を変えようとしていた。けど、どうやっても変えられない。落ち込む。ダメな自分が嫌。でも諦めない。諦めたらいけないと、いつも頑張って疲れて途方に暮れて、いっつも自分が嫌い。常にもっと良くなろうもっと成長しよう、と心が休まらない。
「私はどうもへんてこなんだけど、そのままでいいや」と心の底から納得していいんだよと教えてもらって驚いた。
え、そんなズルしちゃっていいんですか。
怠け者の私はそんなことしたらどんどん自堕落になるんじゃないかと怖かった。
でもこの解放感は人に優しくなる。
私がそのままでいいなら、私を取り巻く全ての人たちも、そのままでいいに決まってる。
私の過去のつらかったと思っている記憶も、今の私にたどり着くためにあった事柄だから、それも正解。
ひどい人とか、嫌な記憶とか、無くて、すべて正解。
だから今日も、どんな風に過ごしても、正解。
よく依怙贔屓っていうけれど、まさに、自分を愛することって自分を依怙贔屓することかもしれない。
自分に甘くなると自己課題が減るから心にスペースができる。その新しくできた余裕が家族を友人を近隣を他人を動物を植物を愛する場所となるのかもしれない。
何があっても君の味方だよって、自分に約束しよう。
私はどんな時も死ぬまで、私のことを無条件でそのままで良いって言ってあげる。
ってなわけで、これからは安心してダラダラしよう。
春だから大好きな日向ぼっこして。
夕飯が面倒になるとすぐカレーにしちゃおう。
嫌なことはできるだけ逃げよう。
太ってきたと言われても、痩せようと気をつけなくていい。
好きな服を着よう。
自分を向上させるための本じゃなくて、興味のあるものだけ読もう。
付き合いでの行動はやめよう。
遠慮もやめよう。
人目を気にするのもやめよう。
怒られたらぺろっと舌出して、ごめ〜んと言って、気にしない。
改良しない。
大丈夫、そういう私こそ、いかにも私らしい。
そんな私の方が私にとっては魅力的。
凸凹生きよう。瞬間的に。
人を見ないでください 自分だけを見てください
朝、聞いていたラジオで、有森裕子さんが言ってた言葉が突き刺さった。嬉しく突き刺さった。ので書いとこ。
話はマラソンランナーには3種類あるというところから。
「どれがいいとか悪いとかはないんです」
一つ目はジョガー。散歩よりは少し運動になるし、走ったり、歩いたり、というペースの人。二つ目はランナー。これは競技に出たり、フォームやタイムを記録して日々、記録を伸ばそうとしている本格的に取り組んでいる人。そして三つ目がアスリート。走るということで生計を立てている人。速さは関係なく、スポンサーがついて仕事として生計を立てている人をアスリートというのだそう。
だから、埼玉県の地方公務員であるところの川内さんは、ランナー。一等をとってもランナー。
「アスリートを追い越し、ランナーが一位をとった、という現象なんです」
健康にはどれが一番いいんですかと言う問いに
「本当は、健康、死ぬまで健康という意味で言ったら、死ぬまで毎日、生活だけで十分なんです。毎日の生活の中でちゃんと階段を使って、庭の草むしりとか、買い物で荷物を持って正しい姿勢で歩くとか。正しい姿勢を毎日の生活の中でしていれば死ぬまで十分歩けます」
マラソンというのはその筋力があった上で、じゃあ走ってみようかという段階です。だから初めは、速度よりも正しいフォームで走るために使う筋肉を鍛えていく。ゆっくり時間をかけて作って、そこからです。
そこで、70代のパーソナリティが茶目っ気で
「そうですか、どうしてもつい、かっこよく走ってやろう、あいつより早くとかって思うんですよね」
というようなことを言うと、そこでこの名言でした。
「人を見ないでください。自分だけを見てください」
有森さん自身がアスリートとして競争してきたというのにと思うけれど、彼女はマラソンは生きて仕事をしていくための手段として自分の人生で捉えていたそうです。オリンピックも、オリンピック選手としての名誉や誇りのためではなく、その後の仕事を考えた上でのオリンピックでのメダル獲得という経歴を考えていたそうです。
職業として、アスリートとして、の、オリンピック。
だから、そうでない人は、健康を考えて、そこから趣味で走るなら、フォーム、筋肉の使い方が一番大切ということなのだということを強くきっぱり言っていたのが響きました。
私は走ることもできない自分が、時々、かっこ悪いなぁと思いながら毎朝歩いています。自分よりずっと年上のおじいちゃんや、おばあちゃんが、跳ねるように走って抜いていきます。ジョガーだけでなく、ウォーキングをしている爺婆様たちにもグイグイと追い越されていくほど、のろのろ歩いているようなのです。自分ではスピード上げてるつもりが、抜かれていくという。
ときどき、ちょこっと小走りをしてみても走れて3メータ。
今はまだ筋肉から。
ゆっくりゆっくり背中を伸ばして正しい姿勢で、私だけを見て。
歩き始めた頃は公園半周もできなかった。歩いてきたら、その日は家事もできなかった。毎日歩けなかった。外出のある日はそれ以外に歩くなんてありえないほど体力もなかった。
今はどうよ。
ちゃんと公園歩いて、掃除洗濯、ご飯を作ってスーパー行ってさ。
私だけを見たら、進歩進歩。
有森さんみたいな強い人が言うと、勇気になる、力になる。
ありがとう。