ただの毎日の中で。専業主婦の平和すぎる日常

自分の思っていること、ちょっと引っかかったこと。誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

そこに愛はある

綺麗事と言われてしまうけれど、私の考え方。

人に言われた言葉で傷ついたり、目つきや、表情で相手の機嫌や自分へのメッセージを探ってしまう事が多かった。

人が選ぶ言葉は心をそのまま表現していると思っていたのだ。

近しい人は尚更、そうだと思い込んでいた。

私はうれしければ、嬉しいと言い、頭にきたら、腹が立つと怒り、悲しくなると一人になって、その場を去る。そのまんまの変化球無しなのだが、世の中にはそういう大人は少ないのかもしれない。

本当は嬉しいのに、照れくささから怒ったり、本当は悲しいのに、喜んだり。自慢したいのに、意味不明な世間話の中にそれとなく自分の手柄を混ぜ込んだり。それは人間らしさだと思う。

 

すまなかったなぁと思う。

私の母も姉もこの人種だったのだと、最近、気がついてきた。

まさかである。二人はいつもズケズケ心の中に入ってきて、無神経な言葉を言って、私を批判する。

そこに照れと心配と愛が隠れていたというのか。そういうことだったのか。

言葉の裏にあるその心を汲み取らず、彼女たちからしてみれば私はトンチンカンな解釈をしていたのではないだろうか。

母や姉が私をからかい、バカだといい、ダメな子だと言って笑うのが嫌だった。今でも、嫌かな。

「あなたは何をやってもダメなんだから、なんでも自分で決めたらダメよ」

その言葉を言い続けられたことは、正直今も「もう少し気をつけて欲しかった」と思っている。

けれど、その根っこは愛だった。

愛さえあればなにを言ってもやってもいいのかといえば「うーん」といったところで、まだそこまでふっ切れていないけれど、でも、根底には愛があったのだなぁと思うと、過去が救われる。

過去が救われたものとなると、つながっている今も、少し見え方が変わる。

 

夫の単身赴任を知らせた途端、案の定、母の過干渉が点灯しはじめた。「なんでも相談して決めなさいよ」「あれはどうするの」「これはどうするの」「こういう時こそ、お金は出し惜しみしないで使いなさいよ」「なんでも楽しみなさい、笑顔、笑顔」

・・・うるさい・・・。

「あのさ、私を応援しようと思って、盛り上げたり、励ましたりしてくれているんだってことは伝わるんだけど、あんまりテンション上げないで。却って落ち着かなくなってしまうんだよ。私、ご存知のように不器用だから。できるだけ、淡々と事を進めたいの。気持ちはありがたい。ありがとう」

「・・・そう。そう・・でも、なんでも困ったら相談にきなさいよ、あなたはすぐなんでも自分でやろうとするから」

「ありがとうございます」

48年だよ。48年、この人の娘をやって、やっとこう言えるようになった。

愛するのが下手な母と愛されるのが下手な末娘の春。