お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

眺めていてよかった

8時半に起きて車の免許更新にいくはずだった息子が昼過ぎに起きてきた。

「課題やってたら朝の5時まで起きていてしまった」

嘘ではないがやや、事実と違うことを私は知っている。正確に言うと「課題が完成したあと見始めた動画が面白くて気がつくと朝の5時であった」である。しかしそこには触れない。何事も余白が必要だと思う。

「いいからシャワー浴びておいでよ」

のんびり食事をとり、スマホでなにやら見ながら、つぶやいた。

「俺今日は午後、机の掃除をするわ」

「あ、そうなの」

あらそう、そうなのね、どうぞご勝手にくらいの熱量で返事をした。

しかし。母はその時心の中で「ヨッシャー!」となにかの闘いに勝ったかのような喜びを噛み締めていた。

あの机。いつも洗濯物を入れにいくたびに掃除したくてしたくてたまらなかったのだ。どうみてももうゴミであろうプリントの山。本のカバーのはずしたものや、ボールペンの替え芯の終わったの、大学1年のときのプリント、就職ガイダンスの先々月の予定表、食べかけで忘れ去られている喉飴の袋らが今必要なもの達とごちゃ混ぜに積み上げあれ、真ん中にあるMacBookの周りを覆い尽くしていた。

何度、手を付けようかという誘惑に駆られたことだろう。

よかった。堪えてきた甲斐があった。

これで、とことん散らかる→観念して掃除するというパターンが彼のなかに植え付けられた。

散らかる→私が知らぬ間にチョコチョコ手を入れなんだかこぎれいになっている→勝手に触るなと怒られる→それでもまあこざっぱりしたのでまた綺麗にしないととは思わずまた放置

ここに陥ることをこれで恐らく永延に避けることができたに違いない。

一時間もすると大きなビニール二つ分のゴミを持って階段から降りてきた。

大きな机の上にはスタンドとパソコンのみ。床に散らばっていた雑誌も本もない。遠慮がちにチマチマと私がやるよりずっと綺麗になっている。

生活の乱れや食事の栄養も一緒に住んでいて「オイオイオイオイ」と口やかましく言いたくなるのをグッと堪える。

「あのとき私が死んだと思えば、天国から見守るしかできないんだ」

「大学出て一人暮らししたと思えばなにも見えない」

一人で生きているのを側で見ているのだと言い聞かせながら本人の気づきを待つ。

卑屈になっているのでも無責任になっているのでもないが、やはり、こうして側で彼の変化や成長を眺めることができているだけでも本当にありがたいことだ。

あそこで死んでいたらできないことだった。

私が今口煩く言わなくてはならないのは夫の健康管理だけとなった。