油断して暮らしたい
夕暮れどき、インターフォンが鳴った。画面には見たことない男の人が立っている。後ろにバイクを止めているのが映り込んでいるところをみると宅配だろうか。
「はい」
「先日お試しで新聞入れさせていただいたものですー。あ、今日は感謝の気持ちの品を持ってまいりましたのでいらしていただけますでしょうか」
「あの・・結構です」
「待ってますんで」
動かない。出て行った。パリッとした若い男性がスーツにコートを着て立っていた。眉毛が綺麗に切りそろえられている。
「あ、どうもありかとうございまスゥ、先日お試しで新聞を入れさせていただいたそのお礼でこちらをお配りしています」
お礼。感謝。とプリントされたスポンジがセロハン袋に入りリボンがついて渡された。
「それから、これは新潟のお米なんですけど、これもどうぞ。スーパーでブレンド米とかよくありますけど、これは100パーセント国産新潟米ですから」
5キロの新潟米の袋を差し出す。
「あ、これはいいです、要りません、どうぞお持ち帰りください。購読する意思もないので申し訳ないから」
すると、きょとんとした顔で
「そんなぁ。気にしないでください。みんなに配っているんですから。会社のものですし。そんな別に僕のお小遣いで買っているわけじゃないんですし。大丈夫ですから。奥様くらいですよ、そんな風に遠慮して受け取らない方は」
そうなのか?
ここで私の危うい特質、“THE 無防備”が顔を出す。
この人もこれを配り終えるのがノルマなのかもしれない。
「じゃぁ・・」
受け取った。
手の軽くなった彼は、何やらファイルを開いて話し出す。
「ところであの、新聞は今どちらをお読みですかね」
きたっ。
「あ、ごめんなさい。うちは購読するつもりはないんです」
「例えばですね。4月から3ヶ月だけとか。夏から秋だけとか」
逃げろ逃げろ逃げろ!負けるなton!
「いや、もう本当に、ごめんなさい、やっぱりこれ、お返しします。お約束できないので」
とっさに目に入った止まっているバイクの前籠に渡された米袋を入れた。
「3ヶ月だけでもダメですかね」
「いや、もう、本当に。夫にきつく言われているのですみません」
私の腕からも米袋はなくなり、身軽になったところで彼の前に立ち改めてそう答えた。
さっと、背負っている色が黒に変わる。
表情は変わらずだが、さっきまでの人懐っこい笑みが消え
「あ、そうっすか」
パンっとファイルを閉じ、バイクに向かった。
そして一度もこちらを見ず、走り去っていった。
怖いと思った。
あのスーッと笑みが消えると同時に黒っぽい背後に空気が切り替わる瞬間、怖い、と思った。
お試し新聞は夫が帰ってきていた週末の金、土、日の三日間、黙ってポストに入れられていた。
「僕が帰ってきているときに入るなんて気が利いてるな」
呑気に喜んで熟読していたが
「これ、後から購読しませんかってきても契約しちゃダメだからね。トンさん、電話でもインターフォンでもなんでも感じよくでるけど、ダメですよ。断りなさい」
と念を押していた。
「わかってるわかってる。大丈夫だから」
「絶対だよ。優しくしちゃいけません。トンさんすぐ優しくするから」
そう、夫にきつく言われていたのは「感じよくしちゃいけません」。
なんだかなぁ。
家の中にいても外界からの接触は身構えてかからないといけないのだな。
「電話ももう、出なくていいから。僕も息子も用があれば携帯からするからずっと留守電にしときなさい。大事な用の人は用件入れていくから」
入れるまい入れるまいとすればするほど、あの手この手でなんとか入り込もうとする。
なんだかなぁ。
疲れちゃうよ。