お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

お雛様

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遅まきながらお出しした。

以前にも書いたが、毎年必ず出していたのに、息子の中学受験が終わり迎えた春、しんどくて「今年はいっか。女の子がいるわけでもないし」と無精をした。

そうしたらその年のゴールデンウィーク直前にぶっ倒れ、救急車で運ばれ危篤になり、4ヶ月入院した。

依頼「ひょええ。申し訳ございませんでしたぁ!」とご無礼を平謝りし、たとえ一日二日だけになろうと必ず、お飾りしている。

 

日曜日、祖母のところにいこうかなと思ってから「あ、もういないんだった」と気がつく。

そうか。もう会えないんだ。一瞬、ツンとした。

わたしはいつも彼女になにを求め、会いにいっていたのだろう。

行けば会える。それだけなのに、行くと元気になれた。

こちらの様子をうかがう事無く、いつ顔をだしても

「あっらー、いらっしゃーい」

と目を丸くし、両手を上げて喜んでみせてくれる。

その笑顔だけが見たかったのかもしれない。

すっとんきょうでお転婆で、気が強く、おせっかいで人懐っこい人だった。悲しいときはズボンと落ち込み、励まされるとシャキンと立ち直りすぐ忘れちゃう。一目を気にしてウジウジするような湿っぽさもめんどくささもない、わかりやすい女性だった。

「おばあちゃんはさ、おじいちゃんにある日突然、子供三人残して死なれたとき43歳でしょ。途方にくれたりしなかったの」

「そんな、しないわよ、生きていかないとならないんだから」

「すごいね、泣きたくなったりした日もあったでしょ?」

「ない。泣いてる場合じゃないもん。泣いてたって、しょう〜〜が、・・・ないっ!」

こんなやりとりをしていると、ああ、どう生きるかとか、自分の意義はなんだなんて、どうでもいいことだと心底思えた。

筋肉もない細い身体に皺だらけの顔、真っ白い髪。

その仙人のような風貌から笑顔がすっと消え、ときどき人生の本質みたいな言葉がするっと飛び出す。

わたしはそのありがたいお言葉をいただきたくて、一人、通っていたのかもしれない。

 

このお雛様はその祖母がくれた。

結婚を決めたことを知った彼女が木目込み人形の教室に通い、持って来てくれた。

「お姉さんと一緒のしかないから、トンちゃんがお嫁に持って行くのがないと思って作ったのよ」

自分のためのお雛様。

結婚する事を報告したとき、はじめて手放しで祝ってくれたのが祖母だった。

 

亡くなる直前、叔父が意識朦朧としはじめた祖母に感極まり

「おふくろ、ありがとうな!」

と大きな声で叫んだという。息もあがり苦しい表情だった彼女は目をカッと見開いた。

そしてその大きな目でじっと叔父をみつめ、片手の人差し指と親指で輪っかを作り、OKサインをしてみせたそうだ。

なんという陽気な最期だろう。

なんという母性だろう。

最期まで、死ぬというギリギリのときまで深刻ぶらず、息子の呼びかけにも「オッケーオッケーわかったわかった」としてみせた。そしてそのまま、自分で幕をとじた。

 

庭に梅が咲いた。

沈丁花の莟も膨らんだ。

おばあちゃんが死んでから初めて出す、このお雛様。

そうだねぇ。

ただ、カラッと生ききる。それだけだね。なかなか難しいけど目標はそこだな。わたしもあっぱれな最期で終わりたい。

やっぱり尊敬するよ、おばあちゃん。