私のここ
私ほどこのブログという場に支えられている人はいないのではないだろうか。
家の中にはないから、ここで気兼ねなく「王様の耳はロバの耳!!」と叫ぼうくらいの目的だった。
自分のノートに書いていたが、どうせならどこかで知らない人が読むかもしれないというほうが虚しくない。その程度だった。
足跡のように星マークがついたとき、興奮した。架空の人物が実在する。サンタクロースに用意していたビスケットがきれいになくなっているのを翌朝みつけた子供のように、頭に血がいきぼうっとなったのを覚えている。
母との葛藤をぽつりぽつりと語るうち、自分でも気がつかなかった怒りや悲しみがあふれだす。その度に泣き、いじけ、ここでつぶやく。
みんな、やさしく、かしこく、冷静に聞いてくれた。
ときに、ご自分の体験をふまえた感想を、ときにあなたはそれでいいと、肯定してくれる。
これがどれほど私の自立の助けになったことだろう。
だれにも寄りかからないで立つ。
今の自分のキーワードはそれだとわかっていても、どうしたらいいのか、そもそも自立ってどんな感じなのか手も足もでないでもがいていたのが、気がつけば、母のジャッジにも言葉にもある程度の距離を持て反応する自分になっていた。
あなたはそう思うのね。
これだけのことだったのだ。
たぶん、これが、自立か。
他の人の部屋を訪れると、その部屋の数だけ人の価値観、ライフスタイル、悩み、喜び、日常のリズムがある。小説でもドラマでも想像でも追いつかないほどの人々の営み。
自分の抱えているものもその中のひとつに過ぎない。
自分の感情の揺れに敏感になることも減った。
このいま起きている心の動きは、風が吹いたり雨が降るように人が生きているうちには切り離せない自然現象なのだ。そうとわかれば「あ、きたな」と過剰に反応しないですんだ。
きのう、一日サボった充実感とその後ろにある罪悪感を書いた。
コメントを残してくださる方はすべてお見通しかのように
「休んだ自分を責めることはない。元気でいるのが仕事でしょ」
それぞれ言葉を置いていってくれた。
一夜明けてそれを読む。
この星のどこかに、それでいいんだぞと見守ってくれている実在するだれか達が、暮らしている。
それらの言葉を読んだ朝。
母が突然やってきてリフォームに向けてあれやこれやと話しだす。
自分の寝室をあそこにする、ここにする、あなたはあそこでいいわねと、夢一杯のプランを熱く語る。
「私はどこでもいいよ。パソコンとラジオと携帯さえあれば、どこでもご機嫌になれるから」
だってわたしにはあそこがあるから。
一点の曇りも無く断言できるようになったのは、「あそこ」で自分の軸を構築できる確信があるからだろうと思いながら、長い長い母の話を聞いていた。