ハレを日常にスライドさせる
地味に家の中を整理しているのだが、手をつけていなかった棚を開けると「おお、こんなのあったか」というような物がポロポロと顔を出す。
それは大きく分けて、息子の初めて履いた靴下だったり、私や夫に書いてくれた手紙だったり、情緒的に捨て辛くてなんとなく持ち続けているもの系と、もったいないからとっとく系と2パターンある。
情緒系は毎日の生活の中でわざわざそれを見るために引き出しを開けたりしないのだが、見るとつい和んでしまう。息子の小さな靴下なんて、今や私のパンツや暖パンの脇にムギュッと押し込められているだけで、忙しい朝なんかには邪魔扱いまでされているのだが、体調が落ちたときや滅入っているときなど、何かの拍子に目に飛び込んでくるとしばらくじぃっと見つめていたりする。
それでというわけでは無いが、我が家のあちこちには息子の過去の作品がいまだに階段や洗面所などに貼られたままになっている。
これはこれでいい。
問題なのはもったいない系なのだ。
私は割と物に執着しない方なので欲しいと言われたらあげてしまうし、必要なくなったものもすぐに売るか処分する。
もったいなくてとってあるものは、「使い切っていないからもったいなくて取ってある」のだ。こんなに可愛らしい箱なのに捨てるなんて。この瓶、綺麗。花瓶にしたっていいし取っておこう。そうやって貯まっていくリボン、綺麗なレース、細工の入った瓶、使い終わったお茶の缶。
息子が小さい時には、遊びに来た子たちにお菓子のお土産を持たせてやるときなどに役に立ったが、彼が成人ともなると、もはや学校での工作すら無い。使うとしたら私しかいないのだ。
お菓子を焼いて友達を呼んでお茶をすることも次第に億劫になり、今私のところにやってくるのは
「あ、お茶、そのコップでいいよ、洗い物増えるから」
というような身内同然の奴らばかり。使うことはほぼない。これからもほぼない。
テーブルの上にドサっとおいた可愛らしい品々を眺める。
なんとか日々の生活に使えんだろうか。
お洒落なブログを書くようなステキな奥様だったらきっとステキなカードとか作るんだろう。が、悲しいことにそのセンスも技もないので案は浮かばない。
三つだけと決めて選び、それ以外は処分した。
お茶の缶も処分した。ほうじ茶、紅茶、緑茶の三つあればいいのに、お土産なんかでもらったお茶の缶が愛らしいと、飲み切ったと同時に捨てられない。そんなのがいつくもいくつも食器棚を無駄に占領していた。
長く長く伸ばし続けた髪を切ったような不安と爽快感。
何度か資源ごみの蓋を開けては「これでいいのだ」とまた閉める。
Mashelyさんのブログで食事のテーブルスナップを見るときがあるのだが、日常に使われている食器に自然とコペンハーゲンやダンクスが写り込んでいるときがある。それはいやらしくなく、手元にある食器を大事に生活に取り入れているだけのものなのだが、いつも「こうでないとねぇ」と見つめていた。
うちももう家族はみんな大人なんだし、だれも食器を割ったり食卓で勉強したりしないんだから、ハレの日用にしまいこんでいた者たちを日常デビューさせていこう。
まずはついつい買い込んでたんまりとある、ランチョンマットを今晩からでも取っ替え引っ替え毎食、惜しまず使うことにしよう。
左に山積みなのは夫の台湾出張のお土産のお茶缶。右の黒いのは紅茶専門店のもの。手前は姉の台湾土産のお茶缶。一度拾い直し、もう一度捨てた。