お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

着地

ついにMacBook Proを修理した。Appleサポートではもう部品もないので修理もできなかった。買ったのは2012年。退院したとき、なんだかパッとしたくて買ったのだった。

もう駄目だとわかっていても、パソコンの類いは、なんとなく捨てづらい。毎日、これであれを書き、あれも作った。仲間を裏切るような、そんな後ろめたさがある。

使えるようになって戻ってくると、古いからこそ、大事になる。もう今度駄目になったらいよいよかもしれないと思うと、そのときまで大切にしようと、マメにシャットダウンし、休ませる。

おかえり。これから最期まで大事にするからね。やさしくするからね。

 

最近、心の声を聞いてやるようになってきた。

以前のように、自分に課したノルマも、客観的に自分をジャッジしてはこれでいいだろうか、ちゃんとしているだろうかと一日を振り返ったり反省することもやめた。

動けない日は動かない。嫌なんだけど・・・と、ボソッと言っているのをキャッチしたら、できるだけそっちを選ぶ。

なぜかわからない。あるとき絞り出す気力も体力もない日、もう、いいやと、すべて放り出した。

これまでもそんなことは何度もあり、その度に自分を鼓舞して乗り切ったが、それすらもどうでもよくなってしまった。

どうとでもなれ。そんな感じ。

その日は一歩も外に出ず、家の中でやりたい家事だけをやり、気の向くまま本を読んだり手紙を書いたりドラマを観たりぐうたら過ごして終わったが、夜、息子と食事をしているとき、幸せだなぁ。。が湧き上がってきた。くだらない駄洒落も妙におかしく、ご飯と味噌汁に焼き魚の献立もちゃんと味がした。

あぁ、今日はいい1日だったなぁ。

ベッドにもぐりこんだとき、布団をずり上げながらニンマリ目を閉じた。

魂。魂が喜んでいたのだと思う。

 

まだまだおっかない。こんな本能の赴くままに暮らして大丈夫かと、突然、不安になる。軌道修正するなら今だ。今ならまだ、がんばる私に戻ることも可能だと自分を揺さぶる。

でも、いい。戻れなくなったらなったで。

自己採点やジャッジに使っていたエネルギー分のゆとりができる。そのスペースにきっとまた、なにか新たなものが生まれるだろう。

息子が生まれてからずっと、自分は壊れない、多少疲れて表情が暗くなったとしても、そんなのすぐ治ると突っ走った。背伸びもした。闘いも、葛藤も。とにかくもっともっともっとと、なにがどうもっとなのかわからないまま、走り続けた。

パソコンと一緒で壊れなかったが、壊れる寸前のところまでいって戻ってきた。それでも、ナニクソともう一度立ち上がり、ヨタヨタと毎日自分をジャッジをし、向上したいともがいた。

 

いつ死ぬのか。長いのか。短いのか。

最期までお尻を叩いてがむしゃらは嫌だ。だったらいつやめるの。これ。

ありのまま。

それはとても怖い。むき出しで生きて行くわけだから。

孤独感もついてくる。

でもそれが素の自分に戻ることなのかもしれない。

夜9時になるとベッドに入り、雨だと家で本を読み、晴れると隣駅まで散歩に行く。

嫌な誘いは極力さけ、少ない気の合う仲間とときどき話す。

予定はせいぜい今月のことまで考え、来月は来月。

積極的に楽しもうと何か探しにいくことはせず、なんとなく過ぎる一日が、なにより心地いい。

 

ただいま私。長いこと留守にいたしました。

遠くにいってたよ。