お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

愛に包まれているような・・

雨が降っている。今日は月曜日。明日は、そう、ダンボール資源回収日。

いつもなら、この段階で外でびしょ濡れになっているダンボールを想像し、翌日の資源出しはもう、消えている。また来週までに乾くだろう。そのとき出せばいいや。

しかし。今日の私は未だ、出す気満々である。なぜなら、ダンボールは家の中にあるからなのだ。

思えばどうして、溜めてから出すという前提で、外に出したのだろう。一週間ごとに出せばそうそう溜まらないのだから、家の中で保管しておけばいいのだ。そうすれば、朝起きたとき、すっとそれを持っていけばいいだけのことじゃないか。

これは、コメントをいただいた方が教えてくれた。「僕はいつも玄関に置いておくから、出すのがもう、楽しみで楽しみで」というようなお言葉だった。

ご本人は、軽く笑い話しとして残されたであろうこの一文に、私は「おぉ・・確かに」と密かに感銘を受けたのだった。

ダンボールを出すのが楽しみな月曜の夕方は、初めての気分だ。

 

ブログを始めて、私の生活は少しづつ彩りを得てきたように思う。

始めた頃は、まだ人と関わることが怖く、自分にも自信がなく、ただ、ただ、日々心に溜まっていく澱のようなものを吐き出すだけのところだった。だれかが、どこかでこれを読んでいてくれるかもしれない、と、まるで海に手紙を入れた小瓶を流すような気持ちで始めた。

星をつけて「読んだよ」と足跡を残してくれる人の存在を見て、本当に心が震えた。

今でも覚えている。ひとりで部屋のなかで、自分で自分を抱きしめて「生きててよかったじゃん」と気味の悪い踊りをした。

家族から言われる言葉とは違う反応をくれる人たち。

違う視座でものを見て、価値観を持ち、暮らしている人たち。

それはもう、宇宙にたくさんの星があるのと同じだった。

そして自分もその星の中の一つに過ぎないのだということを思うと、全てが、なんでもありなのだと解放されていくような気がした。

もしかしたら、私はこのまま、ただ、ここに存在していればいいのかもしれない。

今は少しづつそっちに自分が傾いている。

 

ダンボールを家の中に保管することを覚えた。

インテリアに熱を込めている人からは、本当に小さなところのモヤモヤをなんとか好みのものに近づけると、暮らしが楽しくなると学んだ。本当に小さなところで、私もトイレの洗剤のあのスプレーのデザインが嫌だったので、セロハンを剥いた。調味料を小瓶に入れた。机の向きも妥協しなくなった。

高齢の母親を抱えて生活している人の暮らしから、自分の母との距離の持ち方も学んだ。

面白い漫画があると聞けば、読んでみた。

素敵な曲があると紹介されて、聴いてみたら、好みだった。

働きながら主婦をやっている人たちの日々の努力と頑張り、毎日の食卓への工夫を知ると、私も体が辛いと逃げず、ちゃんとしようと、励まされた。

不思議だ。

私はずっと同じ場所に住み、同じ生活を繰り返しているのに、何か、ゆっくりと大きな革命が始まっているようだ。見えない力が作用している。

きっと私はさほど、根本からは変わっていないのだろう。

だけど、見なかったものを見て、話さなかったことを話し、言われたことのなかったような反応を受けることが、何かにジンジンと響いている。

 

相変わらず自信なく、親に気を遣ったり、大勢の人のなかに出ていけなかったり、凸凹し続けているのはそのまんま、生きるのが下手だ。

でも、なんとなく、楽しい。

 

愛に包まれているような・・・。

心からありがとう。