実はそうだったんだ
今日、読んでいた本にあった一文にドキリとした。
傷ついたのと、恥ずかしいのとは違う。
あ。と思った。
私は傷つきやすい方だとは思っていない。けれど、辛かった記憶の中の自分はいつも傷ついているようだった。
違ったのだ。
不意に言われた言葉に反応して恥ずかしいと思う。自分のダメなところや気にしているところをズバリと言い当てられたり、安心しきって期待していたことを肩透かしされたり、それを笑われたり。
そんな時、私は恥ずかしかったのだ。
恥ずかしいのに、気づかれまいと、笑ってやり過ごしたりしてきた。
そして、一人で凹む。
もう二度と笑われまいと、自分の感情を出すことをやめ、自分丸出しすることをやめた。自分から道化て。
笑われるのは平気なのだ。自分で仕向けた笑いだから。
うっかりしているときにズバッと切り込んでこられる突っ込み。それが怖かった。笑われないように、話のネタにされないようにいつからか、用心深く振る舞うようになった。
実家内での私のことだ。
母と姉にいつもバカにされ笑われたとき、泣きたい気持ちだったあれは、自分で自分が恥ずかしかったからなのだ。
確かに魂が傷つけられたのなら、この負けん気の強い私がおとなしくしているはずはない。きっと怒り狂って、主張したろう。
核心についたところを、見事に救いとって笑われるから、いたたまれなかったのだ。
泣いて怒れば、「なに泣いてんの」とさらに笑われる。
ああ。そうか。そういう仕組みだったか。
だから私は、友達にも夫にも息子にも、近所の人にも、割と自分を解放していられるのに、実家では別人になるのか。自分の話をしないのか。
だから、これだけ近い実家に泊まったり、食事を食べに行ったりすることが苦痛なのか。
夫に出会えてよかったなぁ。
夫が自分の人だと気がついた若い私を褒めてやりたい。
出会ったとき、気に食わないやつだとお互い思いあっていた私たち。
あれは、強烈な何かを感じ取っていたのかもしれない。
今更自分を変えることはできない。
もともとできないのだ。
悪気なくからかい続けたのは、深い意味はなかった。
知らず知らず、自己肯定感を低くしていったのは私の受け取り方の下手さ。
でも、今更急に「なぁんだ。じゃぁもう、安心」とはなれない。
きっとこれからも用心深く母と姉と接するのだろう。
それでも、根底に流れているものは、深い愛なんだ。
やっぱりそうだったんだ。
あの人たちは私のことが大好きなんだ。