お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

第二ステージは肩の力を抜いて鎧を脱ぎ捨て丸腰で

今朝起きたら、足がふらつく。吐き気がして頭痛もする。

いったいどうしたんだ。昨晩寝るまではなんともなかったのに。この一晩の間にどういう作用があったのだろう。

ほんと、人体はふしぎ。

あれだろうか。母を夕飯に招いて息子夫と4人で食事をし終えた安堵感から気が緩んだのか。

「夫さんが帰ってきている間に一回くらいはご飯に呼びなさいよね」

そういわれていたのは、私にとってはノルマとなっていた。

正直言うと「めんどくせー」のだけれど、そうもいかない。

夫の父と食事をすることも知っている。強気で威圧的な言葉を使う割にけっこうひがむのだ。

えばるいじっぱりの寂しがりや。

何を作ったところで「味が薄い、ちょっと固い、塩がたりない」となにかしら言われるのだから、気張るのはやめた。

カレーカレーカレー。

こういうときこそ国民食。平和の象徴、カレーの出番。

と、いいつつも、玉ねぎをすりおろし、素揚げしたピーマンとなすを用意するあたり、わたしもまだまだ鎧が手放せていない。

いつもどおりハウスの中辛バーモントでいいものを。ホールトマトで煮込んだ、よそ行きスープカレーを作ってしまう。

夫の父の時のように普段着でと、なぜ自分の親にできないのだろう。

褒められたい認められたい。

それが自分を息苦しくしてきたと気が付いたのだから、さっさと手放してしまいたいのに。いまだ、しがみつく。

母は文句も言わず食べていた。息子はするどく

「なんだ、今日のカレー、すげえじゃん」

と反応した。

かあちゃんのカレーはうまいんだぜ、いつも」

き、気を使わせているのか、わたしは、息子に。

孫に面と向かっていわれたばあちゃんは「そう」と言わざるを得ない。

・・・気を使わせたのかもしれん・・・。

夫はマイペースで楽しそうにビールを飲み枝豆をつっつく。素揚げしたナスだのピーマンだの見ちゃいない。

食後、アイスクリームを食べて、母は帰って行った。

終わったぁ。

悲しいかな、これが正直な感想だった。中間試験が終わったときのような爽快感。

ああ、あとは夫のこの休暇、なんにもしないでいられる。課題はすべておわった。

 

母もわたしに恰好をつけている。

つまらないとか、さびしいとか、仲間に入れてとか、心配なのよと決して言わない。

私に負担をかけまいとバリバリに、母親を張っている。

大丈夫?の代わりに、あなたは馬鹿だから気が休まらないと、言う。

照れ屋でいじっぱり。

愛していると言ってしまったら負けたとでも思うのか、しかし、その娘に張る意地こそが彼女を支えている。

それを感じ取って育った私も、母に冗談も軽口も言うが、心の中の闇も辛さも隠してしまう。

褒められたいの。認めてほしいの。

これはどう?これならどう?だいぶ私も一丁前の大人になったと思わない?

すごいでしょ。

 

母の中にいるのは末っ子の手のかかる私。

それでいい。

それが愛なんだと思う。

そこだけはちゃんと、感じとれるほどには成長した。

それで充分じゃないんですか、私さん。

 翌日にどっと疲れが出るほど自分の親に見栄張っているようじゃ、まだまだ脱皮しきれとりてせんなぁ。

でも、どんなに遅くても、気が付いたのはいいことだ。

つっこまれて、ダメ出しされるたびに、「ぐふふふふ・・・」とうれしくなっちゃうくらい、自分の周りの人たちに甘ったれて生きちゃおう。

そうしちゃおう。

どうせ呆れられるなら、本当に呆れられるほど呑気な幸せ者になってしまおう。

いつか私もだれかの役に立てる人間になんて、もう考えない。

私って幸せ者だなあって、味わって味わって、味わい尽くしちゃおう。

それ。それで、いいんです。

それが、わたしの後半、生きる道。