お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

自分が思う自分を一旦捨てよう

自分を高めないととか、向上しようとか、どんな自分であろうとか、そういうのを意識して捨てるようにしている。この頃。

思考は、どうも癖みたいなところがあるようで、それでも無意識のうちに「いまの自分は、今日の私は、これでいいか、よかったか」とジャッジする。そしてそれと同時に「あぁ、もういいんだっけ。そういうの、やめてみたらどうなるか、只今実験中なんだっけ」とホッとする。

ホッとするということは、緊張感があるわけで、それが苦しいから「もういいんだ」と思い出して安心するのだ。

苦しいとわかっているのにどうしてわざわざ自分で自分を緊張させるのかが、自分でもよくわからない。

 

自分の思う自分と、人が思う自分。そのギャップをいつも埋めようとしてきた。

人が思う自分に追いつくのが目標。

それを続けていると、本当にやりたいことと、やっておいた方がいいからやろうと思っていることの境界線がなくなって、何が何だかわからなくなってくる。

お笑いが好きなのは、馬鹿騒ぎをして陽気に笑っている方が家が明るくなるからかもしれない。

本をたくさん読むのは、頭のいい姉と母にばかにされたくないからかも知れない。

料理をできるだけ冷凍食品を使わないのは、母親として良くないと非難されたくないからかも知れない。

 

いま、できるだけ、自分を投げ出して洗いなおしている。

何も考えず、湧いてきた感情に素直にのってみる。

時間を有効に使うとか、意味ある1日にするとか、怖いけど、やめてみている。

 

表面上は何も変わっていない日常なのに、自分で自分を責めたり評価しないで暮らすってこんなに豊かなものなのか。

 

今のところ、ただ、倉本聰のドラマを観て過ごすのが心地いい。

飽きるまでやろうと思う。

大人になってから観たはずのドラマも、もう一度みるとそれぞれの登場人物に持つ感情が随分違っていた。登場人物の誰か一人に感情移入していた昔に比べ、どいつもこいつも嫌なところもずるいところも健気なところも見え隠れして、切なく、可愛く、憎めない。

神様もきっとこんな眼差しで私たちを眺めているのかなぁ。

私も、私はこうであらねばなどという、くだらない自尊心は一旦捨ててみようか。

神様と私が思っている、全てを許し、受け入れ包んでくれる大きな存在は、私の中にずっと昔からいるような気が、最近、するのだ。