カレーとフジ子・ヘミング
午前中、いや、正確に言うと午後1時20分までずっとリビングの床に転がって過ごす。
景気付けに街中を散歩している番組や映画の情報なんか、いかにも週末の娯楽感満載のものをつけて、ウトウトしていた。
社会派のあの映画を、まだすっぱりあきらめきれない。
テレビで12億突破なんて煽られると、なんか「見なくちゃいけない」ような焦燥感にかられてしまう。
現実社会の歪みをついたそれは、観てみたいような、観るとその後の自分がどう反応するするか不安なような。怖いものみたさなのか。いや、これも先日の飲み会のように世の中の話題のものに自分がついていけるか試してみようという挑戦か。もう少し考えてからにしよう。
狙いをつけていたのは今日から上映の「フジ子・ヘミングの時間」という作品なのだ。これは先月シネスイッチ銀座に「モリのいる場所」を観に行ったとき、予告編で絶対見に来ようとスケジュール帳にその場で公開日を書き込んだ。
フジ子・ヘミングが好きだ。好きだと言い切るほど詳しくないから、惹かれるというのが正しいかもしれない。
あの力強さと繊細さ。浮世離れした世界観。ブレのない自分の世界。
奏でる音も、彼女の人生も、かけらほどしかしらないけれど、あの切ない旋律はなぜかじっと聴き入ってしまう。
そういいつつ、サッチモも好き。さだまさしも好き。ラジオも好き。さんまさんも好き。
子供の頃から、わたしの中にはお笑い番組が好きで、馬鹿陽気なところと、いじめっ子は許さないという鼻っ柱の強いところと、その裏にこっそり、1人で空想の世界でぼんやり夢うつつになるようなところがあった。
それはうっかりすると友人や家族に宛てたメッセージカードなんかに露呈する。うちの家族はみんなそんな、しっとり情緒的なものに私が浸ることを嫌った。
高校に入学してすぐに言われたのは「演劇部だけはやめろ」だった。演劇部に入る気満々でいた私は母の鋭さにびっくりし、あまりに的をついていたので「わたしには行ってはいけない世界なんだ」と受け止めた。
母は私の中にあるウェットな部分が拡大するのを恐れたのだと思う。
ゴロンと寝っ転がりながら、iPhoneでシネスイッチ銀座の混雑状況を見る。[初日から長蛇の列!]と写真がアップさえているのを観て、今日はやめようと、少しホッとする。行かない理由ができた。混んでるなら平日にしよう。
カレーをこしらえながらYouTubeでフジコの演奏を聴いているうちに、だんだん気持ちが妖しく引っ張られていく。強力なフジコの世界の引力に。
窓を閉め切ったこの部屋にラジオもテレビも、人の声はなく、妖艶なフジ子・ヘミングのピアノが響く。
現実界のカレーの匂いと不釣り合いなBGMのアンバランスな空間から飛び出したくなった。
化粧もせず、読みかけの文庫本とiPadを持って家を出た。
外は、何事もなく、普通の土曜日だった。
ただの雨曇りの土曜の午後。
ぐるぐる歩いてドトールに飛び込んだ。シュークリームとブラックコーヒー。
現実がそこにあった。隣の席では「胃下垂だからたくさん食べちゃいけないの」と言っている高齢の女性がおじいさんとデート中。向かいのテーブルには後輩二人を前に、仏教学と神と主教について後輩に熱く語っている大学生。
夢の世界だけじゃ生きていけない。現実だけではときどき苦しくなる。
現実の生々しさがいつでもあるドトールにやってきて、それを確かめてどこかホッとする午後。