お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

味わうのはテンションを下げてから

車は急に止まれない。私も似たようなところがある。

何か面白いことに夢中になったり、脳が刺激を受けて高揚したり、活動したとき、心と身体がピタッと一体になって走り出す瞬間がある。

その時は至福の真っ只中にいるから、疲れもなにも感じない。不思議なほどに、アイディアがいくつも連鎖的に湧き、体は機敏に動く。

昨日がそうだった。

確かにかったるく、地べたから剥がすように起き上がり身支度を整え、家を出た。

歯医者で治療をしてもらい、日本橋丸善について展覧会を見る。

作品から何か強いエネルギーを受け取ったのだろうか。時間を忘れてじっくりその世界に入り込んだ非日常がいい刺激になったのだろうか。会場をでたあとも、まっすぐおとなしく帰る気持ちになれなかった。

短距離走のゴールをしたあと、ピタッと急に止まらず、少し、走り抜けるように、マラソンの後、グランドを軽く周るように、丸善の中を流して歩く。

ネットで自分からアクセスするのとは違い、そこには発想を超えた世界が、溢れかえっている。

やっぱりときどきは、こうして生の現代社会を肌で感じないとな。

サラリーマンが多く出入りする店内の品揃えは、近所の駅前本屋のとは幅も奥行きも違う。

小説エッセイだけでも、平積みになっているものはどれも目移りしながら、手にとってしまう。英語の本、落語の本、広告の本、文章表現、海外国内の写真、美術。

焦る。未知未開の世界に私を引きつけるものはまだまだたくさん埋まっている。

これら全部試しもせずに、自分には夢中になれるものが見つからないなどとは、言ってはならない。片っ端から首を突っ込んでからだ、それを言うのは。

漫画も、音楽も、少し覗いただけでも、芋づる式にアレもこれもと興味が広がった。

ドラマも映画もそう。

本は。もっと深い。

大きな本屋は大海のようだ。浅瀬にいる魚のように馴染みやすく、さらっと読めてしまう楽しいものから、腰を据えて読破しないと意味すらわからないけれど手応えのある、深海の大物まで、そこにいる。

疲れていたり、気落ちしている時にはこれ、好奇心を刺激されたい時はこれ、笑いたい時にはこれ。ありとあらゆる処方箋を出してくれる私専用の執事がいたらいいのに。

でも違う、手探りで見つけるまでのそのワクワク感。当たったり、外れたり。それが一番の魅力。

二冊まで。

とにかく興味をそそられるものが多すぎる。今日は二冊まで。とにかくその二冊を読んで見て、まだ刺激が欲しくなればここにくればいい。

二冊読み終えたころ、また平穏な散歩と家事と近所の本屋とドトールの日々に落ち着いていたら、そのままそれでいい。

刺激が欲しくなったら、また来ればいい。

いつでも、ここに来れば、ワクワク感があるのだから。

落語の本を一冊、仏教の本を一冊選んだ。

 

盛りだくさんだった昨日から一夜明けた今日。

海外旅行から戻ったときのような余韻の中半日を過ごした。

何か書きたいことがたくさんあるような気がする。

なにかやりたいことが山積みのような気がする。

 

あぁ、まだ興奮しているのだ。

ガスを抜くように午前中はラジオもテレビもつけず、目を閉じる。

風呂を磨く。トイレを磨く。掃除機をかける。

日常にゆっくりゆっくり戻るまで、本は開かない。

落ち着いて。上滑りなまま、何かを書いたり読んだりしたくない。

午後、2時。

着地。やっと地に足がついた。

さあ、どっちから読もうかな。