お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

遅い

悲しみって時間が経つごとに「今日はここまで回復した」という具合じゃなくて、上がったり下がったりがあるんですね。

「おらおらでひとりいぐも」の芥川賞作家の若竹千佐子さんの言葉。

あぁそうだなと思った。

父が死んだとき、その当日も、葬儀の席でも涙は出てこなかった。半年ほどして、昼間家族がいない家で髪を洗っていたとき、急に込み上げてきて、シャワーの水を頭にかぶりながら声をあげて泣いた。

お父さん、お父さん、おとうさん。

身体ごと泣きじゃる作業をしたことでやっと、父の死を受け入れたようだった。

だから翌日からすっきりするかといえばそうではなかった。父のことを忘れる日もあるくせに、壁に貼ってある新生児の息子を大事そうにそっと抱える父の写真を直視できるまでには、そこからまた数年、かかった。

わたしの悲しみはいつも遅れてくる。

状況を認識してそれがどういうことなのか、これからどんな風に生活が変わるのかちゃんと把握するまでに時間がかかる。悲しいという感情以前に、自分があのとき実は傷ついていたんだということ自体、何年も気付いていなかったなんて事もある。

映画をみても、映画館で涙はでない。けれど、帰る道道、どよーんと気持ちが引きずられている。一緒に観ていた友人はポロポロ泣いていたのに別れ際は晴れやかな顔をしている。

今、なにが起きているのか、今、なにを感じているのか、整理できないまま情報を受け取ってぼんやりしているのでその場での反応が鈍いのだ。

つまんない人ねとよく母に言われた。

そういえば、喜びもあとからじわじわくる。

誕生日を祝ってもらっているのに、どこかでその場面を俯瞰している私がいる。

あぁ。やっとここまできたか。今年の私は去年より平安の中にいるようだから喜びを感じているようだ。これは無理をしていない見せかけではない喜びのようだ。あぁ、ちゃんと喜んでいる喜んでいる、よかったよかった。

などと考えながらそれを周囲にもわからようと笑顔を作るのだ。そしてサービスしてすこし陽気にふるまう。

その場は取り敢えずそうやってやりすごし、あとからゆっくり風呂に浸かりながら「幸せ者だなぁ」とひとりでニンマリする。

すべて一度やり過ごす。

みんなそうなのか。わたしが遅いのか。

若竹さんの仰る「上がったり下がったりの悲しみ」は、癒えていくまでの過程を言っているから私のとはちょっと違うのかもしれない。

認識が遅く、そこからまた上がったり下がったりを繰り返すから、とんでもなく消化するまでに時間がかかる。そんな性質の人間のようだ、私というやつは。

そんなわけだから割といつもなにかしら、心の中で転がしている。そしてあるとき急にそれが弾けたり吹っ切れたりするからややこしい。

そう理解して認識できたのもやっと49になった今だからこれも相当遅い。

わたしはこういう人っていうのは私には永久わからない。

けれど、やっとそうやって、皮を剥いて剥いて新しい自分を見つけていくことこそ、面白いし生きる醍醐味なんだと、これまた今頃やっと、わかってきた。