お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

平行の糸

もう一度、友人からのエッセイ集を読みかえす。

隠し持っていた感情を抱えながらおっかなびっくり読んだ。素晴らしい出来に脱帽し、置いてきぼりをされたようで、ちょっと自分にがっかりし、日を置いてもう一度、改めて開いた。

もう怖くはない。もともと彼女と私はまったく違う道を進んでいたのだ。比べ競いあう相手ではない。勝ち負けなど存在しない。

 

そうやって考えると、誰一人同じ人生を歩む人はいない。学歴や家族構成や趣味や好みが似ていたとしてもそれは枠組みだけのこと。私の人生とピッタリ同じ人はいない。オリジナルのコースを進むために生まれてきた。

すぐ近くにいてわかり合っているような夫でも息子でも母でも、丸ごとすっぽり理解してやることはあり得ないのだ。

ならば、よそのコースと自分のものと比べる意味などあるわけがない。

母の人生を思うとき、息子の葛藤を想像するとき、夫の闘いを応援するとき、共感できた気がしてもそれは全体の何万分の一にもならないのだろう。私がしていることは、情報を元に想像しているだけに過ぎないのだから。

だからこそ、謙虚であらねば。思いやらねば。そうやって優しさや情が育まれる。

母が私のことを「姉のおまけに産んだできそこない」「私の人生、どうしてこんなことになるの」と言うたびに深く傷ついたのは、母に自分自身の存在価値を委ねていたからだった。

一歩引いて一個人として付き合う今、同じ口から出てくるきつい台詞も、老いに対する不安と、自分のこれまでの日々を整理しきれない思いを私にぶつけているのだと感じ取れる。これは母の問題なのだった。私に責任はない。私はただ、その苛立ちの直球を腹でドスンと受け止めるだけでいい。

みんな平行して生きている。

家族は距離が近いから、絡んだりこんがらがったりしやすい。

平行を保つ。これから介護や看病をする関係になったとしても、個はどこまでいっても個なのだ。心の中までは踏み込めない。

 

彼女のエッセイを一人の著者の作品として文を追ううちに、次第に抱きしめてやりたい思いがこみ上げる。陽気な文体の陰に涙や不安や怒りや迷い、そして逃げないひたむきな努力が、見え隠れしている。一度目さらっと目を通したときには見えなかったものがそこかしこに溢れていた。

誰もが自分の道をただ必死に生きている。笑いながら泣きながら。

それに上も下などあるわけがない。

私も私の人生に誇りを持とう。